人類の進化と北方適応   煎本 孝

 本稿は人類の進化と北方適応について、サピエンス化に焦点をあてながら、自然と文化の人類学という視点から解明することを目的とする。そのため、第1に現在の北方狩猟採集民に見られる心の特徴、特に心の社会性を抽出し、その文化・生態学的基盤を明らかにした。第2に、これが4万年前の後期旧石器時代人にまで遡り得るかどうかを検証し、洞窟壁画に見られる「魔術師」、「不可解」とされていた図形が動物−人間という混成像の表現であり、その背後には初原的同一性と互恵性の認識という心のはたらきがあったと考えられることを示した。そして、第3に、心の進化が現生人類の北方適応にとっていかなる意義を有するのかについて、サピエンス化が北方適応の前適応として位置づけられること、さらに人間と動物との間の認識に基づいた世界観が周氷河生態における行動戦略として働いたことを指摘した。最後にこれらの知見に基づき、人間性の起源、人類進化のメカニズムにおける行動的適応能の重要性、人類の将来と人類学の役割など、心と人類進化の展望について述べた。
キーワード:人類進化,サピエンス化,北方適応,初原的同一性,互恵性,心,行動的適応能

I はじめに

 人類の誕生を420万年から300万年前の猿人(アウストラロピテクス)とすると、彼らの食料は植物に依存していたと考えられている。しかし、200万年前の原人(ホモ・エレクトス)では腐肉あさりを含んだ狩猟が可能となり、50万年前の旧人ネアンデルタール人、古代型ホモ・サピエンス)ではすでに狩猟が行われ、10万年から15万年前には現生人類の直系の祖先である新人(現代型ホモ・サピエンス)がアフリカで出現し、その後、おそくとも最後の氷河期であるヴュルム氷期における4万年前の後期旧石器時代には、北方適応と大型動物の狩猟活動系が確立していたものと考えられる[煎本 1996: 117-118; リーキー 1996; LEE and De VORE 1968]。したがって、狩猟と人間の起源とを過剰に結びつけた1950−60年代の「狩猟仮説」と、1970年代以後のこれに対する同様に西欧思想という限定された枠組みからの批判[カートミル 1995]を差し引いたとしても、人類進化における狩猟の意義を無視することはできないであろう。
 さらに、人類の進化を知るためには、過去の人類と生態学的共通性を持つ現在の狩猟採集民を知る必要がある。もちろん、現在の狩猟採集社会は過去の進化的残存形態ではなく、現在に至る歴史的、生態的適応形態である。すなわち、狩猟採集民の中には農耕社会を経て二次的に狩猟採集経済に再適応したものもあり、さらに狩猟採集社会は隔離された社会ではなく隣接する他の社会との交易経済関係を通して成立していることは先史学、歴史学においても周知の事実であり、狩猟採集民研究の当初より指摘されている前提でもある[INNIS 1962; 煎本 1994; LÉVI-STRAUSS 1968: 350]。同時に、現代の狩猟採集社会は疑いもなく連続する人類の進化的位相の1つであり、過去の狩猟採集社会と無関係ではない。したがって、これらの条件を踏まえながら、現代の狩猟採集社会を先史時代の狩猟採集社会と比較検討し、その生態学的同異に焦点をあてながら人類進化の過程の分析と考察を行うことは可能であり、人類学にとって必要なことでもある[煎本 2007a: 6-7]。
 人類の北方ユーラシアへの進出は、大陸氷床の発達しなかった北東シベリアでは、マンモスなどの大型哺乳類が生息していた更新世後期ヴュルム氷期のカルギンスキー亜間氷期(2万5000年―4万年前)になされ、2万年前のサルタン氷期に向かって気候の寒冷化が起こると植生は耐乾燥タイプから半砂漠タイプへと変化し、南下する大型哺乳類を追って、人類も南下あるいは東進し、一部海で途切れていたベーリング海を渡ってアラスカに入った[福田 1995: 88]とされる。シベリアにおける後期旧石器文化の変遷も、カルギンスキー亜間氷期において、ルヴァロワ技法から石刃技法の出現がみられ、サルタン氷期に入ると石刃の小型化と木葉形尖頭器の普及、細石刃の出現と植刃器の発達がみられ、寒冷気候への適応と北方周極地域への進出がなされる[DIXON 2008; 木村 1997: 51]ことになるのである。
 従来、この北方適応を現生人類の出現であるサピエンス化(sapiensization)の要因として論じる試みも幾多なされてきた[BORDES 1972; WATANABE 1972:271-285]のであるが、現在、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の起源がアフリカにあるという前提条件をとるならば、北方環境がただちに人類進化の要因であったとはいえないかもしれない。新人の出現は寒帯、熱帯への適応に共通する、より一般的要因に求められるべきであり、むしろ新人の出現は北方への前適応であると考えることができよう。したがって、そこでは、その潜在能力がいかに北方の生態に対応し、北方周極文化を形成したのかという新たな問題設定が必要になるのである。
 そこで、本稿では人類の進化と北方適応の過程をサピエンス化に焦点をあてながら、自然と文化の人類学[煎本 1996]という視点から分析することにする。このために、第1に現在の北方狩猟採集民に見られる心の特徴、とりわけ心の社会性を抽出し、その文化・生態学的基盤を明らかにする。第2に、これがユーラシア後期旧石器時代人にまで遡り得るかどうかを検証する。そして、第3に、そのことが北方適応にとっていかなる意義を有するのかを明らかにする。最後に、これらの知見に基づき、心と人類進化についての展望を提示する。

II 北方狩猟採集民の心

 心とは人類学的には脳のはたらきである。それは、脳と身体の神経生理学的反応に基づく記憶、感情、思考を含む進化的産物であり、同時に所与の条件に適応し得る可塑性をそなえた複雑な体系を構成する主体となるものである[煎本 2007a: 3]。
 北方狩猟採集民の適応を考える場合に、環境に対する技術的側面のみではなく、社会的側面、さらにはそれを可能とする人類の心の社会性の進化を明らかにすることが必要である。心の社会性とは自己とほかの個体や集団との関係に関する心のはたらきである。ここで重要なことは、心の社会性とは人間の社会に対するものだけではないということである。人類の認識する社会には、人間社会と自然の人格化による超自然的社会との2つがある。狩猟民は自然の事物を人格化し、彼らとの間で社会をつくり、その関係を形成しているのである。
 自然の人格化(神格化)とは人類学においては従来アニミズムとよばれたものである。アニミズムとは、霊的存在に対する一般的信仰であり、「未開人」における自然宗教として19世紀進化主義の枠組みの中で、タイラーにより提唱されたものである。しかし、現在、人類学においてアニミズムは特別な社会や宗教の分野に限定されるものではなく、人類に普遍的に見られる霊的体験の理念と解釈である[YAMADA 1997: 327; 1999]と再定義されている。この霊的体験が自然の人格化であり、超自然的社会の認識である。人類にとって自然はもう1つの社会なのである。
 これが重要なのは、人類とほかの動物との生態的関係‐とくに狩猟を通した殺害と肉食‐が二元性を背景とした互恵性の認識の基盤になっていると考えられるからである。超自然的認識のもとでは人間も動物も植物も同じ人格を持った成員として社会を形成することになる。これは人間と自然との同一性という見方である。しかし、狩猟は人間が動物を殺し、食べることである。そこでは動物と人間とを区別する二元性が必要となる。人間と自然との同一性と二元性という2つの矛盾する見方を統合するのが初原的同一性の概念なのである。

1 初原的同一性

 初原的同一性(original oneness)とはアサパスカンにみられる人間と動物とは異なるものではあるが、本来的には同一であるとする論理である。より一般的には、併存する二元性と同一性との間の矛盾を解消しようとする説明原理であるということができる[煎本 1983; 1996: 4; 2007a: 11; IRIMOTO 1994a: 336-337; 1994b: 426-427](図1)。
 アサパスカンが語る多くの神話は、「昔、動物は人間の言葉を話した」と始まる。「焚き火を囲んで、それぞれがどの動物になりたいかを話し合っていた。リスは本当は熊になりたかった。しかし、熊はそれを許さなかった。悲しんだリスは焚き火のそばで丸くなって寝てしまった。その間に、焚き火の火で背中が少し焦げて、リスは今のように茶色になった。そして、熊になることをあきらめたリスは木のこずえにかけ登り、現在では子供たちと楽しくさえずり遊ぶことにした」と語られる。神話の中で、「最初は動物は人間の言葉を話した」と語られる背後には、「現在は動物は人間の言葉を話さない」という無言の語りがある。したがって、この神話は、現在は動物と人間の違いがあるけれども、本来的には同じであったということを語っていると解釈することができる。彼らのこの考え方を初原的同一性の概念と名付けることができるのである。この神話は動物の起源譚にとどまらず、動物と人間との二元性と同一性という矛盾する2つの見方を神話的時間を導入することにより説明しようとする論理なのである。
 二元性と同一性を統合するこの論理により、人間は動物を殺し、肉を食べるが、同時に動物の超自然的本質である人格との間で互恵性という概念を用いて、食料としての肉を贈与として受け取り、これに対して返礼を行うという狩猟の世界観を成立させることができるのである。なお、ここで注意すべきことは初原的同一性とは本来、同一のものを異なるものとして範疇化し、そこに生じる矛盾を解消しようとする論理であり、もともと異なったものを統合させるという心理学のモジュール・モデルに基づく心の認知的流動性という解釈[ミズン 1998:211-220]とは正反対の進化的過程であるということである。
 初原的同一性は神話だけでなく芸術においても表現される。2,500年前のベーリング海峡エスキモーの遺物であるセイウチの牙製引きかぎには、女性とセイウチとの二重の表象が彫刻され、海獣の母となった人間の女性の神話との連続性[ARTIUNOV 1997: 188]が認められる。さらに、この動物と人間との二重の表象は現代のマッケンズィー・イヌイットの滑石彫刻芸術においても表現される[煎本 1993]のである。
 また、北西海岸インディアンのトーテムポールの一番上には熊が、一番下には現在の彼らの首長の顔が彫刻されている。これは彼らの神話であり歴史である。熊と世界で最初の人間の女性が結婚し、子供が生まれ、その子孫が現在の彼らの首長であることが示されるのである。人間や氏族の起源が動物と人間との結婚に始まるとされる神話は北方地域においては広く見られ[IRIMOTO 2004; 煎本 2007b; 大林 1966: 107]、また、別の世界で動物は人間の姿をしているとの世界観[クレイノヴィチ 1993; STERNBERG 1905; 山田 1994]も一般的である。氏族ごとに、祖先の動物を持つトーテミズムとは自然の表象を用いた人間社会の範疇化[LÉVI-STRAUSS 1963]のみならず、自分たちの祖先と特別な動物たちとの間の神話的連続性の認識であり、動物と人間とは本来的には区別されないのだという考え方に基づいているのである。
 範疇化、とりわけ対立的二元論は人類に普遍的に見られるものであろう[LÉVI-STRAUSS 1969]。しかし、ものごとを類別しないという同一性も、普遍的である。そして、この両者をともに肯定し、その矛盾を説明しようとする論理が初原的同一性なのである。

2 互恵性

 互恵性(互酬性)―人間社会における現実の交換関係[伊藤 1995: 226]と区別して、より限定的にいうのならば超自然的互恵性―とは初原的同一性の論理に基づき自然を人格化し、人間と超自然との関係を贈与と返礼による相互関係として認識する思考[煎本 2007c: 20]である。カナダのアサパスカンにおける「おばあさんが育てた」という神話[煎本 1983; 1996]では、トナカイの世界から人間の世界にやって来た主人公の少年であるベジアーゼをおばあさんが育て、敬意を払うことにより、ベジアーゼがトナカイの舌を持ってくるという、人間とトナカイの間の互恵性の起源について語られている。この物語の重要性は、ベジアーゼがトナカイの群れの中に帰るとき、おばあさんに「私のことを人々が話すかぎり、あなた方は飢えることはないだろう」という言葉を残したと語られることにある。これは、人間がトナカイに敬意を払うかぎり、トナカイは人間に肉を持って来るという約束と考えることができる。さらに、神話ではこの約束が結ばれない例についても対照的に語られている。すなわち、おばあさん以外の人々がベジアーゼにトナカイの足を与えなかった―敬意を払わなかった―結果、彼らは飢えることになるのである。これはトナカイと人間との間の互恵性の形成の拒否を意味するものである。
 したがって、現在、秋のキャンプで、おばあさんがベジアーゼの神話を語るのは、まさに人間の側からの約束の実行ということになる。おばあさんは必ずベジアーゼはやって来る、トナカイは肉を持って来ると考えているのである。人々は、人間が困っている時にトナカイは自分から人間のところにやって来ると言う。だから、トナカイと人間との間の互恵性は神話によってその起源が語られ、さらに約束によって、現在も継続しているということが出来るのである(図2)。
 さらに、人間とトナカイとの間の互恵性の起源の神話における主人公のベジアーゼは次のような意義を持つ。第1に、ベジアーゼという名称は生物学的に1歳のトナカイに対する民俗分類名称であり、同時に神話に登場する小さな少年を示すものでもある。動物としてのトナカイとその本質である人間の姿をした少年とが同一であるという自然の人格化の表現となっているのである。第2に、ベジアーゼはトナカイから人間へ、そして人間からトナカイへと変身する。神話では、おばあさんがトナカイのふんの中から手袋の親指に入るくらいの小さな赤ん坊を見つけ、育てる。また、最後にベジアーゼがトナカイの群れの中へと帰って行く際には、おばあさんがベジアーゼの履く小さなカンジキの跡を追って行くと、手袋が落ちており、さらに小さな服が落ちており、やがてカンジキの跡は小さなトナカイの足跡となって雪の上に続いていたと語られる。これはベジアーゼの変身の語りであり、動物と人間との両義性の表現である。ここでは、動物と人間とは本質的に同じであるという初原的同一性の概念は変身と両義性により説明されているのである。
 第3に、ベジアーゼの霊性である。ベジアーゼはトナカイのふんの中から見つけられたことに加え、おばあさんに育てられ生長した後も30センチメートルほどの身長の小さな少年であったという異常性が語られる。さらに、ベジアーゼはトナカイを狩猟する時に人間の狩人のように弓矢を用いることなく、トナカイの肛門から体の中に入り、口の中からトナカイの舌をかみ切って殺した、と霊的狩猟の方法が語られるのである。異常性は霊的力と結びついているのである。第4にベジアーゼはトナカイと人間との間の神話的仲介者である。ベジアーゼの訪問と帰還によって、トナカイと人間との間に社会的交換が行われ、互恵的関係が成立したのである。しかも、現在でも、ベジアーゼはひときわ速く走る小さなトナカイの姿でトナカイの群れの中にいると考えられており、トナカイと人間との間の互恵性の認識は継続しているのである。
 アイヌのクマ狩猟においても同じ互恵性の論理を見いだすことができる。アイヌは狩猟を狩猟対象動物である神(カムイ)が神の国(カムイモシリ)から人間の国(アイヌモシリ)を訪問することであると認識している。したがって、狩猟とはこの訪問を可能とする人間による行動戦略の過程であると捉えることができる。そして、クマの狩猟後、山の神(キムンカムイ、クマ)の来訪に対する歓迎と、神の国への送還儀礼(カムイホプニレ、熊送り)が行われるのである。人間の国を訪問する山の神は、土産物としての肉、毛皮、胆のうを人間に贈り、返礼としての饗宴と礼拝を受け、さらに神の国へ帰還した後、人間から酒、木幣、粢餅が届けられ、神の国で神々とともに饗宴を催すと考えられている。すなわち、現実には、狩猟は動物を殺しその生産物を確保することであるが、人間はそれを人間と神(動物)との間の社会的交換として考えていることになる。
 良いクマ(獲物)に対する人間の関係については以上述べたとおりであるが、同じ山の神であっても悪いクマに対しては、狩猟行動の過程において、キツネの頭骨の神、および矢毒の植物性調合添加材料に用いられる諸神の除魔力を利用して防御戦略の展開を行う。また、緊急事態においては、コシュネカムイというややもすれば邪悪な神の助力を得た上で、狩猟者の積極的な呪術、魔術的戦略による悪いクマに対する反撃行動がとられる。同様に、狩猟の事故死の発生に至っては、危害を加えた悪いクマを冥府(テイネポクナシリ)へ追放するという制裁行動の発動により、その魂は神の国へ帰還することが阻止され、永遠の死に至らしめられる。すなわち、良いクマと人間との間の互恵性が、熊送りという肯定的戦略により形成されるのに対して、人間は制裁と追放という否定的戦略を設定することにより、悪いクマに対しては互恵性の形成の拒否を行うことが明らかとなる[煎本 1988]。
 さらに、子グマの捕獲、飼育、屠殺という一連の過程から構成されるアイヌの飼熊送り儀礼(熊祭り、イオマンテ)は、人間と山の神との間の互恵性を反復的なものにするための行動戦略の一環として捉えることができる。飼熊送りの特徴は、子グマが長期間、居住地で飼育されるということであり、思考的には山の神の人間界における長期滞在を意味する。山の神と人間との間の互恵性という観点からみれば、この行動は子グマを人間の国におくことによる両者の関係の継続を意味するものである。さらに、子グマは熊送りの後、神の国の両親(父グマ、母グマ)、クマの大王の所に行くということから、子グマは人間の国から神の国への使者としての機能を有していると考えることができる。飼熊送り儀礼は、人間と山の神との間の互恵性を双方に再認識させ、次に山の神による互恵性の実行、すなわちクマが人間界を訪問すること(=狩猟の成功)を約束させるという、人間の側からの積極的な戦略行動であると考えることができるのである[煎本 1988; 2007c; IRIMOTO 1994b; 1996; 山田 1994; YAMADA 2001](図3)。
 ここで重要なことは、北方周極地域に広く分布するクマに対する特別な尊敬と送り儀礼[HALLOWELL 1926; WATANABE 1994]の中で、アイヌをはじめとする極東地域諸民族に限定して見られる子グマの飼育の存在である。動物の子供が仲介者として人間と動物との間の互恵性の形成に重要な役割をはたしたのはアサパスカンの神話の中においてのみではない。アイヌは子グマ自体を山の神(キムンカムイ)であると考え、また父母の山の神からの「預りもの」であると考え、人間の母乳を飲ませて人間の子供と同じようにして育てることで、人間と動物(神)との間の人格の本質的同一性を認める。そして人間と動物(神)との間の互恵性を積極的に操作するために熊祭りを行い、子グマに使者としての役割を持たせ、再び神の国に送り返すのである。したがって、アイヌの熊祭りは、まさにこの神話的互恵性の思考を現実の生活と祭りの中で演出し、体現しているということができるのである[IRIMOTO 2008]。

3 心の文化・生態学的基盤

自然の認識と行動戦略
 北方狩猟採集民の生活は狩猟、漁撈を中心とし、そこから得られる動物性資源に強く依存している。実際、採集活動により得られたコケモモなどの少量のイチゴ類などを除くと、動物性資源はアサパスカンの1方言・地域集団でありトナカイの狩猟民であるチペワイアンのカロリー摂取量のほとんど100パーセントを占めている。この点はカラハリのブッシュ・ピープル(サン)のカロリー摂取の67パーセントが植物性資源に由来する、すなわち動物性資源は33パーセントを占める[LEE and De VORE 1968]という例にみられるように、狩猟採集民にかんする理論的モデルの構築に寄与してきたアフリカの狩猟採集民と大きく異なるところである[煎本 1996: 148-163; IRIMOTO 1981]。
 さらに、北方地域において、狩猟対象動物となる獲物の大群の出現は季節的である。したがって、北方狩猟採集民の1年は夏と冬という規則的にくり返される生態的リズムにより特徴づけられる。チペワイアンにとって、トナカイの季節移動は彼らの居住型を決定する主な要因となっている。夏、トナカイは出産のため永久凍土帯(ツンドラ)へと北上する。そして、冬になると、越冬のため北方針葉樹林帯(タイガ)へと南下するのである。繁殖活動は秋に行われ、トナカイは北からの南下の途中、ツンドラとタイガの境界にあたる森林限界周辺に集まる。そして、湖や川が結氷すると、群れは森林のなかへと南下するのである。チペワイアンは夏と冬のキャンプを設営する。夏のキャンプは漁撈活動のためであり、冬のキャンプはトナカイ狩猟と罠猟のためである。すなわち、秋にチペワイアンは越冬のため南下してくるトナカイをむかえうつため、北上するのである。秋と冬には両者の活動空間は重なりあい、ここでチペワイアンがトナカイを狩猟することになる。すなわち、チペワイアンとトナカイの生態的関係は、毎年の規則的な時間‐空間リズムにより特徴づけられることになる。先に述べた「おばあさんが育てた」という神話はこの生態的関係の隠喩となっているのである。
 しかし、この生態的リズムには不確定性がみられる。トナカイの移動路は年ごとに大きく変わる。また、群れの大きさや越冬地域は、積雪状況や森林火災の程度に応じて変化する。チペワイアンは秋になるとトナカイを待つためにキャンプを設営するが、彼らが毎年、おなじ場所でトナカイに出会えるという保証はない。もし、トナカイが出現すれば大量の肉が得られるが、もし現れなければ人びとは飢えることになるのである。すなわち、北方狩猟採集民はアフリカの狩猟採集民と比較して、動物性資源に強く依存しており、狩人と動物との生態的関係は規則的な時間‐空間リズムを形成してはいるが、同時にこの生態的関係には不確定性がみられるのである。
 秋にトナカイの季節移動を待つというチペワイアンの戦略は、受動的であるようにみられるかもしれない。しかし、チペワイアンの現実的な状況を考えればこの狩猟方法は効果的である。チペワイアンのトナカイにたいする信頼は、ベジアーゼについて人びとが語るかぎりベジアーゼは人びとに十分な肉を与えるという約束に由来している。チペワイアンは彼らの側の約束の条件を満たし、トナカイの出現をまつのである。この時期、人びとは不十分な結氷ゆえに湖での氷下漁を行うこともできず、またトナカイの肉に頼ることもできない。狩人たちはキャンプからさらに北方にトナカイの探索にでかける。キャンプには女性と子どもが残り、最小限の活動を行う。この時期は女性と子どもにとっては活動の停滞期となる。彼らは紅茶だけを飲み、ほとんど食事をとらずに座ったり横になったりしている。生態学的な観点からみると、この行動はエネルギー消費を最小化し、保存食の消費を減少させていると解釈することができる。この意味で、秋のキャンプにおいて女性と子どもが活動量を最低限に抑えて、トナカイを待つという行動は、その受動的な印象とは反対に彼らの能動的で有効な行動戦略として位置づけることができるのである。ここでさらに重要なことは、彼らはトナカイにたいする信頼ゆえに、キャンプで静かにベジアーゼの神話を語り、穏やかな気持ちでトナカイが現れるのを待っているということである。
 チペワイアンは神話で語られる約束はいまだ有効であると考えている。神話は過去の話ではなく現実の生活の中で生きている。すなわち、互恵性という心の社会性を特徴とする生態に関する認識であり説明である神話は、同時にチペワイアンの現実の生態に対する行動戦略の基盤となっているのである。
超自然と人間集団の関係
 超自然の認識は生計活動における行動戦略の基盤となるだけではなく、シャマニズムの実践や集団儀礼を通して、人間集団の維持、調整に直接かかわってくるものである。カナダ北極圏のイグルリック・イヌイットのシャマンは獲物がとれない原因を、社会的タブーを犯したある特定の個人に対する獲物の主(海の女神であるタカナカプサルック)の怒りによるものであることをセアンスの場で公表することにより、個人の反省を求め、社会的秩序を維持する[RASMUSSEN 1929: 127-128]。同様にアイヌのシャマンであるトゥスクルは、飼育されている子グマの不調が社会的に違法の性的交渉などタブーの違反によるものであるとして、問題の裁定を行う[MUNRO n.d.; 煎本 1995: 194; WATANABE 1995: 101]のである。
 さらに、アイヌの熊祭りは狩猟の積極的行動戦略としての前狩猟季節儀礼となるばかりではなく、社会的、経済的意義を発展させ、祭りそのものがアイヌ世界の象徴的演出として、動物(神々)と人間、人間と人間との間の初原的同一性と互恵性の体現の場となっている。アイヌの父系出自集団やさまざまなレベルの生計単位を基盤とする集団構造は熊祭りを背景としながら形成されている。さらに、飼育された子グマの熊祭りが毎年反復されることにより、周期運動としての安定性を獲得し、それにより熊祭りが歴史的変化に対応しながら社会を調節、継続させることが可能な動的体系となっているのである[煎本 2010; IRIMOTO 2010]。
 ところで、人間社会における互恵性も集団の生存にとって重要であることはいうまでもない。狩猟採集社会は根源的な平等主義を特徴としており、アサパスカンのキャンプにおける食物分配の例[煎本 1983; 1996: 125-126; 2007a]はこのことを示している。キャンプは同一地点における一時的な人々の集合である。それは、自然的および超自然的環境に対する安全性を保証し、情報交換のための場となり、さらにトナカイの集団猟を行うための男性の構成員を提供する。キャンプは理論的には複数の狩猟単位――家計単位が共系的に結びついて形成された共系出自集団――の集合であり、全員が同じ親族集団に属するものではない。しかし、食物のない時には自由にだれもが分配にあずかることのできる一般的互恵性の場である。さらに、人々は食料の分配にあずかる時に、許可を得たり、礼を述べたりすることがない。これは、次の機会には自分が逆の立場になるかも知れないという生態的不確定性によるものである。しかし、同時に、この行動は人々の間に分配を通した支配−従属関係が形成されることを阻止することになっている。すなわち、狩猟活動という生態的基盤が協力行動を通して、人間社会における一般的互恵性と平等主義の形成に関与しているのである。
 このように、狩猟によって得た獲物(人格化された超自然からの贈り物)は食料として人間社会の中で分配、消費され、これに対して、人間社会の代表としてのシャマンが超自然的社会と交流し、狩猟を成功させるなど、人間社会と超自然社会という2つの社会は生態学的に直接結びついている。
 ここで、互恵性が2つの社会にみられるのは進化的にはモジュールの流動性により人間社会が超自然社会に反映されたためであろうか。たしかに、人間社会の階層化が、神々の世界の階層構造を作り出すように、一方の社会の認識が他方の社会に反映されるなど、両者の間には相互関係もある。しかし、そもそも、自然と超自然という2つの社会を区別したのは人類学者であり、狩猟採集民は本来これらを区別していなかったのではないだろうか。自然の人格化とは自己の自然への共感であり、自己と他者とを区別しない同一性である。そして、人間が自然を区別し、それを自覚した時こそが初原的同一性の論理の出発点であり、神話の登場であり、人間性の起源そのものであったはずである。もっとも、人間は人間になっても日々の活動を通して自然との共感を経験している。したがって、狩猟採集民にみられるように、自然社会と超自然社会とは混合、併存しており、これら1つの社会における互恵性の認識という心のはたらきに本質的な区別はないのである。
文化
 超自然社会や自然社会における互恵性とは人類学的な分析概念である。人々はどの程度客観的にそれを意識しているのであろうか。たとえば、アイヌのクマ狩猟は、「クマである山の神(キムンカムイ)を迎えることであり、熊祭りは山の神を送ることである」と人々は意識している。そのことがカムイユーカラによって語られ、まさに「神送り(イ・オマンテ<それ(カムイ)・送る)」と呼ばれる熊祭りにより、演出されているからである。
 しかし、同時に、熊祭りにおいて山の神と人間との間で贈り物の交換が現実に演出されているにもかかわらず、それが「交換」であるとは必ずしも認識されてはいない。熊祭りにおいては、あくまでも人間側からみて「神を送る」ことが主観的に強調されており、客観的な視点からの「交換」や「互恵性」という概念は必ずしも明確ではないのである。
 もっとも、熊(神)送りに際しては、再び神が人間世界を訪れること、すなわち狩猟の成功、が祈願される。互恵性を期待に基づく協力行動であると考えるならば、祈願は期待であり、そこには互恵性の意識があるということになる。さらに、社会心理学の実験で興味深いのは、日本とアメリカの現代の学生を対象とした実験であるが、たとえ期待が意識されない場合でも、利他主義的な行動がみられ、それは条件の手がかりが与えられれば自動的に発動される、いわば心に実装されたしくみである[煎本、高橋、山岸 2007; 山岸 1999; 2000; 2007; RADFORD, OHNUMA and YAMAGISHI 2007]とされることである。この文化を超えて人間に普遍的にみられる行動が、進化史的に形成された適応合理的な心の社会性であるとされるのである。
 したがって、熊祭りを互恵性の認識に基づく人間の積極的な行動戦略であると人類学的視点から解釈することは可能であるが、同時に、その背景にはおそらく無意識的な心のしくみが働いていると考えることも可能なのである。
 文化とはこの無意識的な心のはたらきがより発現しやすくなるために、人間集団に共有される制度化された指針であるばかりではなく、より積極的な行動戦略としての意味を持つということができるのである。もちろん、この考え方は古典的な心理学的還元主義に基づくものではない[IRIMOTO 1981: 3; LEACH 1957: 119-137; MALINOWSKI 1944: 75-84]。さらに、このような文化が現代の集団の生存にとっても適応的であるならば、その集団の心理を特徴づけることになる[ニスベット、コーエン 2009]かも知れない。したがって、現代の狩猟採集民に見られる動物と人間との間の初原的同一性や互恵性の思考は、狩猟採集民に特徴的に発現される文化差と考えることも可能である。
 すなわち、文化とは、心の社会性が人類進化史的に文化・生態との間に動的関係を持つ中で、人間が所与の課題解決状況に対応するための行動戦略として開発、調整、伝達されてきたものであるという側面を持つことを指摘することができるのである。

III ユーラシア後期旧石器時代人の心

 人類はその進化史において家族を形成し、大型動物の狩猟者となり、さらに北方への進出をはたしてきた。そこでは狩猟による食物獲得という生産の問題のみならず、社会集団の再生産にかかわる多くの課題を解決する必要があったはずである[煎本 1996:117]。この考えに基づくと、人類が大型動物の狩人となったとき、狩猟活動系とそれを理念的に操作するさまざまなタブーや神話が成立したのではないかと考えられる。約4万年前から1万年前のユーラシア後期旧石器時代の洞窟壁画は狩猟文化の芸術的展開を示すだけではなく、動物と人間との間の互恵性の起源の神話が創造され、語られたのではないかということを考えさせられる証拠となる。そこで、以下に洞窟壁画における混成像の図に焦点をあて、これを分析し、そこから後期旧石器時代人の心における動物と人間との間の初原的同一性の概念を抽出し、狩猟を通した超自然的世界における互恵性の認識が存在したことの可能性について検証する。

1 混成像と初原的同一性

 南フランス、ピレネー山脈のレ・トロワ・フレール(Les Trois-Frères)洞窟(B.P. 27,000‐13,500年)にはクロマニヨン研究の長老であるブルイユ神父によって「魔術師(sorcerer)」と名づけられた角の生えた面をつけ、フクロウに似た目と、ウマの尾、オオカミの耳、クマの前肢、そしてヒトの足と性器のようなものを持った「動物の神」のような図が画かれている。この高さ82.5‐99.0cmの混成像の図は天井に近い高い位置に描かれた黒色彩色画であるが、写真で見るかぎり細部はかなり不明瞭である。しかし、ブルイユの描写を参考にするならば、少なくとも下半身はヒトで上半身は角のあるシカ科の動物、もしくはシカ科の動物をはじめとする複数の種類の動物からなる混成像である[BATAILLE 1955: 136; BREUIL 1952: 166; MARINGER and BANDI 1953: 111; プリドー, 1977: 128-131; VIALOU 1986: 140](図4)。
 同じレ・トロワ・フレール洞窟の壁画には、トナカイ、アイベックス、ウマ、サイ、バイソンの群れの中に立つ、ヒトとバイソンとの混成像も見られる(図5、図6)[BATAILLE 1955: 135; BREUIL 1952: 163-165; VIALOU 1986: 139, 145]。この高さ26.4cmの混成像は、頭部はバイソンの角とバイソンの顔を持ち、前肢と蹄もバイソンのものである。さらに肩から胸にかけての上半身も毛に被われたバイソンの体格をしているにもかかわらず、下半身になるにしたがってヒトの体つきを呈し、両足はまったくヒトのものであり、まるで他の動物たちを見ているように直立しているのである。また、これらと類似する3点のバイソン−ヒト混成像の図がガビル(Gabillou)洞窟(B.P. 17,180年)からも報告されている[ROUSSOT 1997: 120](図7)。これらは前例のバイソン−ヒト混成像の図と比較すれば、より簡略に描かれてはいるが、バイソンの頭部、ヒトの下半身と後足、直立もしくは前かがみの姿勢、さらにその中の1例には男性性器を認めるなど、バイソン−ヒト混成像の共通の特徴を有しているのである。
 さらに、レ・トロワ・フレール洞窟で見られたシカあるいはバイソンとヒトとの混成像以外にも、混成像と考えられる図形を指摘することができる。フランス西南部のレ・ゼジー(les Eyzies)の東北1.5kmにあるレ・コンバレル(les Combarelles)洞窟(B.P. 12,910年)において不可解[ARCHAMBEAU 1991: 56]と分類される図が見られる(図8)。著者の観察に基づくと、洞窟の壁に線で刻まれた高さ幅ともに約50cmのこの図形は大きな頭を持ち、鼻、もしくは牙が大きく彎曲して前方に突き出し、身体はヒトのように細く、膝を折り曲げたような姿勢で立っているものである。大きな頭部と大きく彎曲した鼻と牙がマンモスの特徴を示すものと考えられるのである。同じレ・コンバレル洞窟におけるマンモスの刻画[CAPITAN et.al.1924; cf. ARCHAMBEAU 1989: 13]、あるいはレ・ゼジーの西北40kmにあるルフィニャック(Rouffignac)洞窟(B.P. 13,000年)に見られる写実的に描かれたマンモスの絵(図9)[PLASSARD 1995: 16-17]と比較すると、先の図形が現実のマンモスではなく、ヒトの特徴をも備えているマンモス−ヒト混成像である可能性を指摘することができる。さらに、直立したマンモスの図形がぺシュメール(Pech-Merle)洞窟(B.P. 24,640-18,400年)からも発見されている[MARINGER and BANDI 1953: 74](図10)。この図は黒色で描かれており、60cmの高さである。頭部から肩にかけての形状、明瞭に描かれた鼻、そして体の前から中央部にかけて下方に垂れ下がっている毛がマンモスの特徴を示している。しかし、細身の体の後部と、何よりも二本足で直立した姿勢はヒトの特徴を示すものである。したがって、この図もマンモス−ヒト混成像と考えられるのである。
 また、クマもレ・トロワ・フレール洞窟における図[BREUIL 1952: 162](図11)に見られるように、当時、狩猟の対象となっていたと考えられる。そして、レ・コンバレル洞窟壁画においては不確定、および不可解と分類される図形[ARCHAMBEAU 1991: 75]の中に、クマとヒトとの混成像ではないかと思われる図が見出される(図12)。これら3体の図の中で、中央と左の2体はヒトか動物か分からないため不確定とされているものである。しかし、頭部から突き出た口と、そこに見られる鼻先、頭の上にある耳のようなものは同じ洞窟に見られるクマの図形[CAPITAN, et.al.1924 cf. ARCHAMBEAU 1989: 29](図13)の特徴に似ている。さらに、これらの図が上半身は前かがみでありながら、下半身は2本の足で立っているかのような姿勢をとっていることから、これがクマ−ヒト混成像の刻画である可能性を指摘することができるかも知れない。
 以上のように、フランス西南部から南部にかけての後期旧石器時代の中のグラヴェット(Gravettien)期、ソリュートル(Solutréen)期、マグダレニア(Magdalénien)期に相当するB.P. 27,000‐12,910年にかけての洞窟壁画に見られる動物とヒトとの混成像の図形を検討した結果、これらの図形がシカ科、バイソン、マンモス、クマなどの動物とヒトとの混成像であるという可能性を指摘することができるのである。
 これらの混成像、特にシカ科やバイソンとヒトとの混成像は従来より仮面をつけた魔術師、あるいはシャマンと呼ばれてきた。また、フランス西南部モンティニャック(Montignac)郊外にあるラスコー(Lascaux)洞窟(B.P. 18,600‐17,070年)の井戸の間に見られる「ラスコーの鳥人」の図において、棒または槍投げ器の上についている鳥が現代のシベリアのシャマンと関連していることから、昏睡状態で倒れている鳥の頭をした男はシャマンであるとされてきた[BATAILLE 1955: 111; プリドー 1977: 131](図14)。したがって、混成像の図も同様にシャマンであると解釈されたのである。これは、洞窟における動物の壁画自体が狩猟呪術のために描かれたものであり、狩猟に先立って動物の図形とともに死の呪文の象徴である記号を描き、儀式的踊りを行ったとされ、したがって、洞窟は聖地であり、これらの図形を描いた部族の芸術家たちは同時に呪術的儀式を行う部族の呪術師たちであった[MARINGER and BANDI 1953: 109-113]とされたことと同様の解釈に基づくものであった。もちろん、これらの解釈が、それまでの芸術のための芸術としての洞窟壁画という解釈とは異なる機能的視点を導入した点は重要ではある。しかし、その解釈も19世紀進化主義者であるフレーザー(James Frazer)による類感呪術という分類を適用したにすぎない。そして、これら呪術を行うのが民族誌に登場する魔術師、あるいはシャマンであることから、壁画に見られる混成像を仮面を被ったシャマンであると解釈したのである。そもそも、洞窟壁画の図形は動物かヒトか不確定か、そうでなければ不可解な形状としてのみ分類されており、その結果、頭部が動物で身体がヒトの図形は、仮面をつけたヒト、すなわちシャマンであると解釈されざるを得なかったのである。
 しかし、ここに描かれた混成像は、後期旧石器時代の芸術家たちがまさに描いたとおり、彼らが認識していた動物なのではないだろうか。混成像は、動物であり同時にヒトなのである。人格を持つ動物は初原的同一性の概念に基づいているのである。したがって、バイソン−ヒト混成像はバイソンの仮面をつけたシャマンではなく、彼らが認識する存在そのものである「バイソン−人間」の表現なのである。彼らは動物とヒトとを別々のものとして範疇化しながら、同時にそれらを「バイソン−人間」、あるいはまた「クマ−人間」という同一の存在として認識し、表現したと考えられるのである。

2 互恵性の認識と神話

 もちろん、この初原的同一性の世界観はシャマニズムの背景でもある。実際、HOPPÀL[1995: 275]はシャマンを描いたシベリアの岩絵の年代に基づき、シャマニズムの起源を2,000年B.C.の中頃と想定している。したがって、ユーラシア後期旧石器時代に実際にシャマンがいたかもしれないという可能性を否定することもできない。もっとも、シャマンがいたという明確で十分な証拠もなければ、いなかったという証拠もない。したがって、現時点ではシャマニズムそのものの存在についても、未決定とせざるを得ないのである。それにもかかわらず、これら混成像が人間と動物との両者の特徴を備えていることから、それらはシャマニズムの有無にかかわらず、少なくとも動物と人間との初原的同一性の概念の表現となっていることだけは確かである。そして、初原的同一性の認識があるということは、動物を人格化しているということであり、そこには狩猟を通した人間と動物との間の互恵性の認識が確立していた可能性があると考えられるのである[煎本 1996: 117-118, 2007a: 17]。
 さらに、互恵性の認識があったとすれば、ここに描かれた混成像は単に初原的同一性の哲学的表現にとどまらず、実際の神話における登場人物であっても良い。トナカイと人間との間の互恵性の起源の神話に登場する、トナカイから産まれ人間のおばあさんに育てられた、半分トナカイで半分人間である主人公の少年ベジアーゼは、トナカイから人間へ、そして人間からトナカイへと変身可能である。また、彼の足跡は森林の中の柔らかい積雪の上では人間の子供のはく小さなカンジキの形をしているが、それが湖の氷上の風で固くしまった雪の上では小さな子トナカイの足跡になっているのを見た[煎本 1983; 1996]と語られるのである。
 洞窟壁画の混成像が、他の写実的に描かれた動物の中で、それらと区別されて動物とヒトとの両者の特徴を併せ持ち、さらに動物の群れの中にひときわ小さく描かれていることから、彼がアサパスカンの神話に登場する、トナカイと人間とを仲介するベジアーゼのような両義的存在であり、そこに動物と人間との間の互恵性の起源の神話が創造され、語られていたのではないかということを推論することができるのである。もちろん、ここではトナカイとバイソンという動物種の相違はあるが、動物と人間との関係の認識は共通している。実際、カナダ極北のアサパスカンの1部ではベジアーゼという神話的人物をトナカイではなくジャコウウシに対応させているのである[IRIMOTO 1988]。いずれにせよ、現在の狩猟採集民に見られる心の特徴―初原的同一性と互恵性の認識―はユーラシア後期旧石器時代人にまで遡り得ると考えても矛盾はないのである。

IV 北方適応と心の進化

 ここでは、ユーラシア後期旧石器時代における現代型ホモ・サピエンスに北方狩猟採集民の心の特徴が見られるということの意義について、北方適応と心の進化という観点から論じることにする。

1 言語能力と世界観の確立

 ユーラシア後期旧石器時代人が言語を使用していたことは、化石人骨の頭蓋底の形態的比較から支持される。もちろん言語が社会的知能、道具使用とともに脳の容量の増加と情報処理能力の向上に依存しており、人類進化の過程で実際に脳容量が徐々に増加し、発声器官も漸進的に発達していることから、言語はホモ・ハビリスホモ・エレクトスという200万年前にまで遡るような比較的早い時期に発生した[リーキー 1996: 224-226]と考えられるかも知れない。しかし、発声器官と関係する頭蓋底の形状はホモ・エレクトスネアンデルタール人の間でも明確な発達の程度の差が認められており[リーキー 1996: 224]、現代型ホモ・サピエンスにおいて言語能力が彼らの祖先と比較して、より発達こそすれ退化したということは考えにくい。
 また、言語機能に関しては大脳両半球とも相補的な機能をはたすが、左半球にある複数の言語野のネットワークが重要であり、その機能相補性の特殊な非対称パターンのバイアスが進化し、側性化が見られるという結果となっている[ディーコン 1999; 359-368; 大石 2008: 35-36]。さらに、前頭連合野は感情や意欲、思考など高い次元の内容を処理するという社会性に関連したいくつかの機能を持つ[水谷 2008: 24, 128]。したがって、言語や思考はヒトの大脳の側性化の進化と関連し、同一性と二元性との矛盾を論理的に説明しようとする初原的同一性の思考は大脳の機能的進化の証拠そのものとなっているのである。そして、その発達により大きな情報処理能力を獲得したことが、4万年前の後期旧石器時代における洞窟壁画や石器の製作技法、使用法の急激な発展から裏付けられるのである。
 ここで重要なことは、人類が洞窟壁画における混成像を描くことにより、人間と動物とを範疇化し、人間とは何か、動物とは何か、そして人間と動物との関係はいかなるものかを認識したことである。範疇化は言語により、いっそう可能となる。言語による範疇化を通した世界についての認識の体系が世界観であり、同時に世界観は言語により表現され、継承されて、集団を個別文化として統合する[山田 1994:8, 232, 239]のである。したがって、言語の使用により後期旧石器時代人は彼らの世界観を確立し、継承することが可能となったということができるのである。
 実際、言語とは、人間が環境を類別、理解し、さしせまった問題の解決方法としての集合的適応戦略をとることを可能とする機能を持つ[MIYAOKA 2007: 148]とされる。すなわち、言語には集団内外における情報交換機能のみならず、世界観の確立と、行動指針としての文化の世代を越えた継承を可能とする機能があるということになる。また、言語における記号計算能力の必要性がヒトの脳の再構造化をもたらし、知覚、運動、学習、情動などの素質パターンを産出しながら、言語と脳とが共進化した[ディーコン 1999: 396, 480]と考えられている。さらに、言語の起源とその多様化について論じているロビン・ダンバーは進化人類学的視点から、言語は血縁者を見きわめるためのきわめて社会的な道具である[ダンバー 1998: 236]としている。
 したがって、方言や言語が、特定の集団との帰属性(アイデンティティ)と結びつき、そこでの協力行動がより効率的に行われるのであれば、その集団は特定の遺伝子群と文化複合とを保持しながら、さらには脳と共進化しながら生存上、より適応的な生態学的地位を占めることが可能となるであろう。また、この脳との共進化には石器製作に必要な手の器用さや技能[SUZUKI and TAKAI 1970;WATANABE and KUCHIKURA 1973]、さらには、予測、計画性、知性など後述する行動的適応能と関連する機能も関係していたはずである。その結果、彼らはさまざまな環境に適応し、さまざまな個別文化を展開することができたと考えられるのである。

2 周氷河生態と生存戦略

 北方アサパスカン・インディアンで明らかにされたトナカイ狩猟活動系は北方狩猟民における人間と自然との関係の戦略的モデルの1つである。彼らのさまざまな生計活動は、トナカイ狩猟を中心にして、トナカイ狩猟活動系とよぶことのできる活動の体系として構成されている[煎本 1996:112; IRIMOTO 1981]。これを成り立たせている原理はさまざまな活動の時系列にそって、各個人がその個人差に応じて活動を時間的、空間的に配分、重積するという、北方森林における効率的生存のための主体的な戦略にある。また、基本家族からなる家計単位と、それらが共系的に結びついた狩猟単位が彼らの集団構造の基盤であり、トナカイ狩猟活動系を稼働させている主体でもある。3世代にわたる社会関係の中で、協力行動を通して資源の生産、分配、消費がなされ、同時に次世代への知識と技術の伝達がなされ、集団の再生産が行われているのである。また、さまざまな狩猟に関するタブーやトナカイと人間との間の超自然的関係を物語る神話は、互恵性の認識や初原的同一性の概念という心の社会性の基盤を彼らに確認させ、彼らの行動の指針となり、具体的な活動の配分や行動戦略を決定する。すなわち、彼らの集団構造や世界観はトナカイ狩猟活動系と不可分に結びついているのである。
 後期旧石器時代の周氷河生態はヴュルム氷期とその終焉により特徴づけられる。ヨーロッパ北部は大陸氷床に覆われ、ツンドラ、ステップが広がっていたが、間氷期、そして氷期の終りには氷床は北に後退し、北方森林が広がることになる。東シベリアにおいても、ヴュルム氷期に対応するヴァルダイスキー氷期の前期ではツンドラ、森林、ステップに特有の動物相が見られる。古いほどマンモス、毛サイ、洞穴グマが特徴的であり、トナカイ、北極ギツネ、ウマ、ロバ、バイソン、サイガ、ジャコウウシがムスティエ期の遺跡から発掘されている。そして、後期旧石器時代にはツンドラー森林の植生に伴なうトナカイが一般的となる[木村 1997: 37-38; MARINGER and BANDI 1953: 8-11; VELICHKO 1984]のである。
 渡辺[WATANABE 1972: 282]はこの環境的変化に伴なう北方森林への適応が、知的能力と関連し、現代型ホモ・サピエンスの出現に影響したと考えた。もちろん、古代型ホモ・サピエンスネアンデルタール人)のムステリアン文化、現代型ホモ・サピエンスの後期旧石器文化が、それぞれツンドラと森林に明確には結びついていないという所見や、現代型ホモ・サピエンスが少なくとも生物学的には、4万年前の後期旧石器時代ではなく、10万年から15万年前のアフリカに起源を持つという最近の知見に基づくと、北方森林適応と現代型ホモ・サピエンスの出現の間には直接的な関係がないようにも見える。実際、5万年前の東ヨーロッパ、3万3,000年前の西ヨーロッパでネアンデルタール人が消えるまでの間、中東では6万年もの間、また西ヨーロッパでも3万5,000年前の1,000年から2,000年の間、現代型ホモ・サピエンスネアンデルタール人は同じ土地を利用していた形跡がある[リーキー 1996: 158-159]のである。
 したがって、オールマン[1996: 204-206]はアフリカのホエソンズポートの遺跡に見られる8万年から6万年の間に現れた複雑な形の道具、1万8,000年前のヨーロッパに現れた見事な洞窟壁画から、すでにこれらの文化をつくる能力を持った現代型ホモ・サピエンスが氷河期による気候変動により社会の複雑さを変え、創造力を開花したのだと考えている。実際のところ、社会を成立させるための互恵性、家族、政治、戦争、文化、言語の起源は460−510万年前にヒトの祖先と分岐したチンパンジー属においてすでにその萌芽が見られ、初期人類であるアウストラロピテクスチンパンジー的な複雄複雌集団とそのサブグループとしての1夫多妻という重層社会を形成し、160万年から20万年前の原人(ホモ・エレクトス)段階では火の使用と料理の発明、生存のための道具への依存があった[西田 2007: 280-286]と考えられている。
 したがって、現代型ホモ・サピエンスにおける社会の複雑さとは、具体的には1夫1妻という形での雌雄のペアボンドとこれらが共系的に結びついた複合的社会の形成ということになるだろう。ペアボンドの形成は雄間の競争を減少させ、集団としてより大きなエネルギーを生計活動へ振り向けることを可能とする。さらに、1夫多妻社会におけるように、男が集団の外へ出て行くのではなく、夫婦がペアとして集団を離れることにより、彼らは母集団と関係を持ちながら、新たに居住域を拡大し、人口を増加させることができる。すなわち、ペアボンドの形成は集団の生産と再生産における新たな戦略となり、離合集散を可能とする狩猟単位という柔軟性を持った共系出自集団の成立を可能とするのである。
 もちろん、この社会が機能するためには動物の生態に対応した集団の離合集散と、情報伝達と食料の分配という生存戦略が必要になる。氷期間氷期のくり返しは、アフリカに乾燥と湿潤という気候変動をもたらし、植物相と動物相に大きな変化を与えたはずである。ヨーロッパでは、ヴュルム氷期が終わり氷床が北に後退すると、寒冷な環境に適応していた毛サイやマンモスは北上した。また現在の動物と人間の生態学的関係[IRIMOTO 1981]から考えると、トナカイはツンドラと森林との間を、バイソンは森林とステップの間を季節移動し、北方アサパスカンやパレオ・インディアンに見られるように、ツンドラ−森林移行帯や、森林−ステップ移行帯での季節的、集中的狩猟が行われたはずである。
 トナカイやバイソンのような大量の中・大型動物は南北1,000キロメートルにも及ぶ季節移動を毎年くり返し、人間がこれを追って群れとともに生活することは不可能[BURCH 1972]である。そこでは、人々は季節的キャンプをトナカイの移動路に展開し、動物を待ち、キャンプ間において移動してくるトナカイの地点に関するすみやかな情報伝達を行い、できるだけ多くの狩人をトナカイ狩猟に投入させることでトナカイの生産量を最大化し、さらにキャンプにおける肉の分配を通してトナカイを獲ることのできなかった人々の飢餓を防止する。トナカイが移動していなくなった季節のために、大量に獲得したトナカイの肉を乾燥、燻製、保存する。そして、森林の中の湖沼に移動し、漁撈活動を行い食料を獲得するのである。トナカイ狩猟活動系に見られるような情報伝達と肉の分配機構は、空間的−時間的に不均一に分布する大量の資源の獲得における生存のための行動戦略[煎本 1996: 160]なのである。
 西ヨーロッパのネアンデルタール人が比較的狭い範囲で1年中生活していたらしいということは、その地域に毛サイやマンモスなどの動物が多数生息していた時には適応的な生存戦略であったが、間氷期や後氷期の温暖気候による動物相と動物の生態の変化に対応するのは困難であったと考えられるのである。現代型ホモ・サピエンスが淡水での魚撈を行い、また北方ユーラシアにまで生活空間を拡大しながら、マンモスのみならずやがて優勢種となるトナカイの狩猟を行っていたのは、ネアンデルタール人生存戦略とは対照的であったと考えられよう。もっとも、2万3,000年前のシベリアのマリタ遺跡のように1年中使われていたとされる遺跡もあるが、そこでは8軒から10軒の住居跡が区別され、48人から60人が住んでいた[木村 1997: 170-172]とされることに基づけば、現在の北方のトナカイ狩猟民に見られるように、夫と妻と未婚の子どもたちからなる基本家族により構成される生計単位と、共系出自集団としての狩猟単位という社会−生計集団がすでに形成されていたと考えても矛盾はない。
 サピエンス化には柔軟性を持った社会構造と初原的同一性と互恵性という人間と動物との関係の認識、情報伝達手段としてのみならず、世界を範疇化し、また集団の帰属性の道具となる記号としての言語、道具の開発、軽量化、効率化、将来を予測し計画する知性などが必要とされたはずである。これらヒトの心の能力は、15万年から4万年の間の氷期間氷期のくり返しの中で、変化する環境への生存戦略として、時間をかけて進化したと考えられるのである。動物と人間との間の関係の不確定性は、季節移動する動物の群れがまた戻ってくることを期待し、そのためにベシアーゼという動物と人間との両義性を持つ仲介者の神話を作り出し、この世界観が生態的関係を理念的に操作しようとする行動戦略として働いたと考えられるのである。さらに、サピエンス化、とりわけ北方適応には脳と共進化する言語能力や技能そのものに加え、思考と行動の積極的柔軟性、すなわち行動的適応能が重要な役割をはたしたはずである。
 したがって、サピエンス化における心の進化は北方適応のための前適応という意義を持ち、これが4万年前の後期旧石器文化の急激な展開と北方地域への人類の進出を可能とし、トナカイ狩猟活動系に見られるような特徴的な北方周極文化を形成したと考えられるのである。

V 心と人類進化の展望

 ここでは、以上の知見に基づき、心と人類進化についての展望を述べる。初原的同一性と互恵性の普遍性、人間性の起源を考察し、人類進化のメカニズムの解明のための行動的適応能という視点の必要性を指摘し、最後に人類の将来と人類学の役割を展望する。

1 初原的同一性、互恵性人間性

 初原的同一性と互恵性の認識という心のはたらきは、狩猟と強く結びついているため、その起源は10万年から15万年前のホモ・サピエンスにまで遡ることが可能かも知れない。また、互恵的協力行動の進化の条件はヒト以外の霊長類によっても満たされている[西田 2007: 88]ことから、互恵的協力行動は初期人類、もしくは原人(ホモ・エレクトス)にまで遡り得るかも知れない。もっとも、これらの心のはたらきが明確に想定されるのは、すでに指摘したように、4万年前の後期旧石器時代における洞窟壁画においてであった。
 したがって、互恵性や初原的同一性の認識は現生人類において広く認められることになる。北方狩猟採集民においては動物と人間との結びつきが強いため、これらは動物を中心に展開、強調されているのである。さらに、アフリカのブッシュ・ピープルやオーストラリア・アボリジニなどの南方狩猟採集民においても、絵や踊りやトーテム神話の中で動物や植物などの自然と自己を同一化させることが認められる[Film Media Group 2004; ウングワレー 1995]。同様に、遊牧社会においても、カムチャツカのトナカイ遊牧民に見られるように、儀礼を通して自然のサイクルの中に自己を同一化させ、神々との間で新たな互恵性を形成する。また、モンゴルのシャマンは補助霊である鳥となって旅をし、神話的時空間における初原的同一性の場への回帰と、混沌から秩序への回復によりそこで獲得した力の行使を行い、チベットのシャマンは神々と同一化し、人々に対する治療を実践する。さらに、ウパニシャッドの思想では人間は自己と宇宙とを同一化し、また仏教の高度の哲学的実践において空を体現する修行者や僧は、すべての現象に関する固有の存在や自己の帰属性の否定という本源的な真理に同一化し、そこから互恵性さえ超越し、生きているすべての存在に功徳を捧げ、慈悲を与え続けるという利他的行動を実践するのである[煎本; 1996: 169-170; 2002: 437; 2007a: 31; 2007b; 山田 2009; YAMADA 1999; YAMADA and IRIMOTO 1997]。初原的同一性と互恵性の認識、さらにそれに基づく行動戦略やさまざまな実践は人間に普遍的であり、さまざまな文化と心の展開を可能としてきたのである。
 すなわち、二元性と同時に同一性も人類に普遍的な心であり、これを自覚し統合する論理が初原的同一性なのである。人間性の起源は初原的同一性にある。そこから、自己と他者とは異なるものではなく本来同じなのだということ、したがって、その関係は対立ではなく互恵的なのだという心のはたらきが生まれるのである。人間への思いやりや生命に対する慈しみの感情は、この人間性に深く根ざしているのである。

2 行動的適応能と人類進化のメカニズム

 従来より、人間は動物とは異なり、すぐれたものであるという西欧思想のもとでの人間中心主義と過剰なダーウィン主義のもとに進化が語られ、現生人類の生物学的、文化的特質は生存上、より適応的であり地球における勝者であるという大前提のもとに解釈がなされてきた。しかし、ネアンデルタール人が20万年以上もの間、地球上に住んでおり、それは現生人類と同じかそれよりももっと長かった[オールマン 1996: 210]ということに基づけば、彼らは決して敗者ではないことになる。両者はそれぞれ別の仕方で異なる生態学的地位を占め、亜種の分化が起こっているにすぎないのである。そもそも、6万年もの間、両者が同じ土地を利用していた痕跡があるということは異なる生態学的地位を占めていたからであり、両者は共存していたと考えることができよう。さらに、この共存が両者の競争を避け、種の分化を促す方向をとるという行動的調節を伴なうものであったとするならば、両者は広い意味で共生関係にあったと考えることも可能なのである。
 なお、行動的調節とは行動を通した活動の調節で具体的には活動の時間−空間利用や、環境に応じた道具の製作や使い方、社会関係の調整などを含み、知覚、言語能力、技能、知性と関連するものである。また、それを実行するための戦略が行動戦略である[煎本 1996: 80, 159]。さらに、行動的調節を通して、生存上その場の条件によくあてはまっている現象が行動的適応であり、そのための能力を行動的適応能と呼ぶことにする。したがって、ここでは課題解決のために積極的に開発、調整、伝達された行動戦略そのものとしての文化の役割が重要になるのである。
 人類進化のメカニズムの解明には、単純な自然淘汰と適者生存という現象の説明原理ではなく、行動的適応能という視点からの進化の過程の分析が必要となる。したがって、サピエンス化の問題を人類進化全体の中で位置づけるならば、それは人類の北方適応のメカニズムのみならず、進化のメカニズムそのものの再検討という意義を持つことになるのである。

3 人類の将来と人類学の役割

 現代型ホモ・サピエンスは言語を活用し、自然と人間との関係を認識し、それにより文化を発展させ、地球上への適応放散をはたしてきたということがいえよう。初原的同一性の概念は自然との間の神秘的な関係を人類にもたらし、豊かな世界観を確立させたのである。しかし、別の視点からみれば、自己を正当化し、虚構の論理的世界を構築し、このことが人類を他の生物にとって、もっともやっかいな存在にしたということもいえる。地球上に拡散した人類は文明を作り、環境を破壊し、さらに正義であるとの正当化のもとに同じ人類を殺戮することを行い、その結果、人類は人類自身にとってさえ、もっとも危険な存在になったということができるのである。現代の地球環境問題も紛争もこの延長線上にある。
 もし、そうならば、人類の進化は、適応という観点からは本当は不適応ということになるかも知れない。人類の進化は生物界全体の中で見ると、ヒト科の脳容量の増加による定向進化的であり、自然と人間との乖離と、自己中心的な一方向への特殊化の過程でしかないと考えることもできるのである。人類の将来についての最悪のシナリオは、人類は他の生物をも道づれにして滅亡するというものであろう。そもそも遺伝学的には膨大な突然異変を含む遺伝子が過去から現在までのあいだに消えさり、生物は絶滅するべく運命づけられている[齋藤 2006: 23]とみなすこともできる。さらに、今日の地球科学においても、地球環境の激変による急激な生物多様性の減少、すなわち生物大量絶滅が過去に何度も起こっていることが明らかにされている[川上 2004: 190-191]。人類進化も絶滅と新しい種の適応放散のくり返しであったと考えることができるのである。
 それにもかかわらず、このような状況のもとで、人類についての最良のシナリオをもしあげるのであれば、人類はもう一度、人類進化史における人間性の起源という根源的事実を知り、そこから長期的展望に立って人類の未来を照射し、それを実現するための心の制御を行うことができるということであろう。心は人類進化においてそうであったように、適応の産物であると同時に行動の主体となるものなのである。そのためにこそ、人類学は貢献できるはずである。

付記

 本稿の一部は、第41回日本文化人類学会シンポジウム「21世紀地球人類の危機と人類史」(名古屋大学、平成19年6月3日)、および、International Crossdisciplinary Symposium, “A Circumpolar Reappraisal” (Norwegian University of Science and Technology (NTNU), Trondheim, Oct. 10-12, 2008)において口頭発表された。なお、2006年11月におけるフランス南西部、スペイン北部の洞窟壁画と研究機関における調査、およびその後の資料整理のため、北海道大学21世紀COE「心の文化・生態学的基盤に関する研究拠点」、およびグローバルCOE「心の社会性に関する教育研究拠点」(北海道大学・人文学)の支援を得た。関係各位に感謝いたします。
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Index研究課題1.北方文化研究の集大成>人類の進化と北方適応


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