日本における北方研究の再検討―自然誌‐自然と文化の人類学‐の視点から―   煎本 孝

要約

 北方文化とは北方地域独自にみられる生活様式−生態、社会、文化−であり、進化史的には新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の北方ユーラシアへの進出と北アメリカへの拡散にさかのぼり、現在に至るまで変化しながら継承、展開している北方地域文化の総体である。この定義に基づき、本稿では日本における北方研究の変遷と成果を、探検の時代(4世紀−19世紀中葉)、学究の時代(1868年−1945年)、世界の時代(1946年−2000年)について再検討した。その結果、北方研究の研究対象はアイヌ文化から広く北方ユーラシア、日本、北アメリカを含む北方周極地域諸文化へと展開し、研究方法も民族学民俗学から自然と文化の人類学−自然誌−へと変遷し、さらに研究目的も日本人と日本文化の起源を明らかにすることから、「人間とは何か」という人類学の普遍的課題の解明へと変化してきたことが明らかにされた。最後に、北方研究が人類の普遍性の探求へと展開していることをふまえ、21世紀が人類学にとって人間性の時代となることが展望された。
キーワード:北,日本,人類学,自然誌、人間性

Northern Studies in Japan Reappraisal

Abstract

 Northern culture refers to the mode of life unique to northern areas in terms of ecology, society and culture, dating back to the advance into Northern Eurasia by modern man (Homo sapiens sapiens) in the history of human evolution and proliferation to North America. “Northern culture” describes a whole body of cultures, which have changed, descended and developed up to today. On the basis of this definition of northern cultures, changes of and products from northern studies in Japan are reappraised in each period: the Age of Exploration (c. 400−1867), the Age of Academics (1868-1945), and the Age of the World (1946-2000). As a result, research subjects for northern studies have changed from Ainu culture to a variety of cultures in broad northern circumpolar areas including Northern Eurasia, Japan and North America. Study methodology also has changed from folklore and ethnology to anthropology of nature and culture − shizenshi − and study objectives have shifted from the clarification of the origin of the Japanese and their culture to the clarification of universal issues in anthropological studies; i.e., “What are human beings?” Finally, since the northern studies have been developed to search for the universality of human beings, I present an outlook for the 21st century of anthropology as the Age of the Humanity.
Keywords: north, Japan, anthropology, shizenshi, humanity

はじめに

 「北」は、ある人にとっては中心から遠く離れた周辺であり、また別の人にとっては挑戦すべき辺境であり、またそこに生きる人々にとっては日々の生活の営みである日常そのものでもあった。さらに今日、それは近代化の過程で人間が失ってきた自然と人間性を取り戻すことのできる故郷として認識されるにさえ至っている。このように、北は時と人によりさまざまな顔を持っている。
 もちろん人類史という観点からいえば、「北」はアフリカで生まれた人類が北方ユーラシアに進出し、さらに新大陸へと拡散して行く過程での適応と進化の重要な舞台であった。したがって、「北」は学問的観点から言うならば、人間を理解し、人間の生き方の知恵を学び、そして人間の将来を展望するための知的挑戦の場でもある。
 本稿では、北方文化とは北方地域独自にみられる生活様式−生態、社会、文化−であり、進化史的には新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の北方ユーラシアへの進出と北アメリカへの拡散にさかのぼり、現在に至るまで変化しながら継承、展開している北方地域文化の総体と定義する(煎本,1992a;2004a)。じつは北方文化を以上のように定義し、研究の方向性を定めたのは平成2年(1990年)10月に北方学会設立準備委員会が発足し、翌、平成3年(1991年)9月に北方学会(Northern Studies Association : NSA)が設立され、同年10月、学会設立記念第1回シンポジウムが北海道大学において開催された時のことであった。北方学会は、ユーラシアおよび北アメリカの多様な北方文化の研究と国際交流を通して、人類の理解に貢献することを目的として創設された。本学会は、地域研究学会としての特徴と、広く人間の研究という広義の人類学との特徴をあわせ持っている。地域研究としては、北方地域が対象であるが、ここには世界的に研究・情報の集積が整備されていないが大変重要な地域である北方ユーラシアと北アメリカが含まれる。日本はユーラシアの一端としての歴史、生態的、文化的特徴を持っているが、同時に環太平洋北部地域という観点からながめれば、北アメリカとも密接なつながりが認められる。そこで、日本を含むユーラシアと北アメリカを連続性のある一つのまとまった北方周極地域として研究対象とするということが重要になったのである。
 人類の進化史という視点からみれば、日本の旧石器文化は北方ユーラシアのそれとは無関係ではないし、これに続く縄文文化にも北方的要素が認められる。民族学的にも北方ユーラシア諸文化、北アメリカ諸文化とアイヌ文化との間には多くの共通点がみられる。たとえば、アイヌの熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の反復−すなわち狩猟対象動物とは肉と毛皮をかぶった神であり、これらを土産物として人間に贈り、人間からは拝礼を受け、木幣、酒、黍餅などの土産物を受け取り、再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する−という論理によって成り立っているが、この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。さらに、ここでは自然(神)と人間を結ぶものとしてのシャマニズム的世界観が重要となっている。
 また、生態学的には北方的自然の中で人間がいかに暮らしているかということが北方研究の対象になる。たとえば、積雪地帯に技術的に対応したカンジキは日本でも見られるが、特に北アメリカ森林インディアンで発達している。また、トナカイの飼育、牧畜はユーラシアに特徴的であるが、北アメリカでは伝統的に見られない。ここでは、トナカイと同じ生物学的種に属するカリブーアメリカ産野生トナカイ)は、狩猟の対象動物としての生態的地位のみを占めている。これら文化の相違は、生態学的、歴史的条件に求めることができる。
 したがって、北方地域研究は広く人間の研究でもある。北方地域を文化的、生態学的領域と考え、その特徴が北方の特質なのか、人類に普遍的なものなのかを常に他の地域と比較検討しながら研究を進めていくという方法をとることができる。そうすることにより、北方文化と人々を人類進化史全体の中で位置づけ、「人間とは何か」という普遍的な問題に近づくことができるからである。
 この北方研究の枠組みの特徴は、第1に研究対象をユーラシア、日本、北アメリカを含む北方地域として広く定義していること、第2に研究方法が自然誌−自然と文化の人類学−であること、さらに第3に最終的な研究目的が「人間とは何か」という人類学の普遍的課題の解明にあることである。これは日本における従来の北方研究が日本の中の北部地域である北海道あるいはその隣接地域に限定され、主たる研究対象がアイヌであったこと、方法論が民族学民俗学であったこと、さらに研究目的が日本人と日本文化の起源を明らかにする事であったことと大きく異なっている。しかし、この変化は突然のものではなく、日本における北方研究の変遷の自然な帰結でもある。
 本稿において、私は北方文化の研究を通したこの知的挑戦の変遷と成果を検討し、その展望について述べたい。もちろん、北方研究は地域研究としては自然科学、人文社会科学、さらには政治・経済分野をも含む領域であり、私はその研究の一部にかかわっているにすぎない。したがって、本稿の目的は北方研究の変遷と展望を大局的観点から、しかも同時に私が学びかかわって来た人類学、とりわけ生態人類学分野を中心にして分析するということになる。このことは、別の言い方をすれば、後に述べられる自然誌―自然と文化の人類学―という視点から、日本の北方研究を再検討するということでもある。
以下に、時代に沿って北方研究の特徴と成果をおおまかに3つに分けて述べることにする。第1は日本の統一政権である大和朝廷が成立した4世紀から、中世を経て近世の江戸時代が終わる19世紀中葉までの「探検の時代」(4世紀−1867年)、第2は明治維新から太平洋戦争終結までの近代における「学究の時代」(1868年−1945年)、そして第3は戦後の二極対立冷戦構造が崩壊し20世紀が終わる2000年までの「世界の時代」(1946年−2000年)である。なお、本稿は文献史学的研究ではない。旧記の記載を通して、その時代に北方の人々に対する関心があったということを指摘し、日本の北方研究がその時代にまで遡り得ることを示すことを目的としている。したがって、たとえば蝦夷(エミシ)の記述に関しては蝦夷に関する最初の資料を取り上げ、従来、看過されていた事実を指摘する。同時に、アイヌ関係文献資料に関しても、従来、人類学分野ではあまり利用されていなかったアイヌ絵資料を取り上げ、そこに生態学的情報が記されていることを述べる。また、本稿では旧記に登場する民族名や地名に関しては明らかな誤りでないかぎり、引用文献に基づいた記載を行うこととする。さらに、本稿では自然誌という視点から、学術的内容に基づいて文献を取り上げ、それは北方研究に関する文献資料の一部にすぎないことをお断りしておく。その他の文献については、各種北方関係文献目録(IRIMOTO,1988a;1992b;2004;YAMADA,2003)、国際シンポジウム刊行物、北方研究関係学術雑誌(『北方文化研究報告』第1−20号、『ユーラシア研究』第1号、『北方文化研究』第2−22号、『北方学会報』第1−12号)等を参照していただきたい。そして、最後に結論として北方研究の今後の展望−これは人間性の時代とでも呼び得るものかも知れないが−について述べることにする。

北方研究の変遷

1.探検の時代

 北への関心は日本では古くから見られた。大和朝廷が成立し、江戸時代が終わる1867年まで、北は探検の対象であった。もちろん、北への関心は学問的というよりは、むしろ日本が政治的に統一される過程で制圧し、統合して来た周辺諸民族−北方では蝦夷(エミシ)であり、南方では隼人(ハヤト)であった−に関する知識を得ることにあった。たとえば日本最古の勅撰の正史として720年に編集された『日本書紀』(舎人親王等 編,720/1669)には欽明5年(西暦544年)に越国(現在の福井県東部、富山県新潟県)の佐渡島北部に粛慎(ミシハセ)人−現在民族学者は彼らをツングース諸語を話す人々であったと考えている−が渡来し、島の人々は彼らを「非人也、亦言鬼魅(人ではなく、鬼やばけものである)」として近づかなかった(北海道編,1980;1989)と記されている。
 また、581年に綾糟(アヤカス)をはじめとする古代蝦夷−日本の北部地域である現在の青森県秋田県宮城県北部に住み、多くの日本の専門家たちは彼らが形質的にも言語的にもアイヌの祖先と関係ある人々であったと考えている−の首長たちが大和(現在の奈良県)にある朝廷にやって来て服従の誓言を行ったこと、658年と659年に、阿部臣が船軍180隻を率いて遠征し、鰐田、飽田、渟代(今日の秋田県)の蝦夷に朝廷への忠誠を誓わせたこと、そして、660年に阿部臣は船軍200隻を率い、陸奥(今日の青森県岩手県の一部)蝦夷と渡島(今日の北海道)蝦夷を味方につけ、粛慎の征討を行ったことなど(北海道編,1989,OBAYASHI,1994)が記載されている。また、『日本書紀』の659年における記述には、蝦夷には遠くから近くに向かって、都加留(現在の青森県)の蝦夷、麁蝦夷、熟蝦夷の三種が認められ、熟蝦夷は朝廷に来貢していると述べられている(北海道編,1989)。熟蝦夷は古代の蝦夷のうち、大和から最も近くに住み、朝廷に従順なものであったことが分かる。
 なお、1323年頃作成された『聖徳太子絵伝』中「十歳降伏蝦夷所」(著者不詳, 1323/1959;1323/1968;1323/1973)には、前記581年の誓言のおり、当時10歳の聖徳太子敏達天皇に献言して、蝦夷(エミシ)の大将アヤカスらを伯瀬川(ハツセガワ)のほとりに召して説服されたという伝説の場面が描かれている。これは今日残る最古のアイヌ風俗画−アイヌの風俗を描いた絵画など−とされるものであるが、『日本書紀』の記載から、これが北海道のアイヌではなく本州の蝦夷(エミシ)を描こうとしたことは明白である。もちろん、この鎌倉時代末に描かれた絵がどこまで当時の北海道のアイヌに関する知識によったものなのか、あるいはどこまで本州の蝦夷(エミシ)に関する知識によったものなのかは不明である。しかし、『日本書紀』の多くの記載が示すように当時すでに蝦夷(エミシ)に関する知識の蓄積があったことも事実である。このような背景のもとで蝦夷(エミシ)が描かれたと考えられるのである。そこで描かれた蝦夷(エミシ)は、アイヌ文化に見られる弓と矢筒を持ち、アイヌ文化と似ているが異なるところの鳥羽および動物の毛皮の肩かけ、頭巾、鉢巻をつけ、布飾りの付いた槍をたずさえ、さらにアイヌ文化には見られない長靴のようにも見える靴が描かれている。従来、この絵はイメージでありアイヌを正確に描いたものではないと否定的に評価されていた。しかし、前述したように、この絵は蝦夷(エミシ)を描こうとしたものであり、最古の蝦夷(エミシ)の風俗画であると解釈することも可能であろう。そうであれば、先に述べた近世のアイヌとの相違点は想像の産物であるというよりは、むしろ本州の蝦夷(エミシ)の特徴として文化的、人類学的に重要な意味を持つことになる。
 事実、『日本書紀』に見られる蝦夷(エミシ)に関する記載の分析から、彼らの生計活動が狩猟、採集、漁撈をはじめ、水田稲作農業、馬の飼育を含み、夏と冬という二分的年周期を持っていたこと、さらに、朝廷に対する反乱が冬の終わり、もしくは夏の終わりに集中して起こっており、これが両季節の移行期、すなわち生計活動の休止期と関連していたことなど(OBAYASHI,1994)、彼等の生態と世界観の一端が明らかにされている。これらの情報に基づけば、本州の蝦夷(エミシ)は北海道のアイヌとは生計活動を異にし、また馬という大陸の影響を直接受けていたことなど、本来は共通祖先に由来したのであろうが、すでに文化的には異なった集団になっていたと考えられるのである。
 北海道のアイヌについての記述も『聖徳太子絵伝』とほぼ同時代の資料に見ることができる。アイヌ文化の成立は考古学的には12世紀頃と考えられているが、12世紀末鎌倉幕府の成立から16世紀末室町幕府の滅亡までの中世において、奥州の安東の乱鎮圧の史料として1356年に成った『諏訪大明神絵詞』(諏訪大進房円忠,1356/1925;北海道 編,1989)に「蝦夷カ千島ト云ヘルハ我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、日ノモト唐子渡党此三類各三百三十三ノ嶋ニ郡居セリト、一嶋ハ渡党ニ混ス・・・比種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜に往来交易ス(蝦夷が島というのは我が国の東北にあり大海の中央にあって、日のもと、唐子、渡党の三種がそれぞれ333の島に群居しており、1つの島では渡党に混じっている・・・この種類は奥州津軽の外の浜に行き来して交易している)」と記されている。金田一京助(1925)は「日ノモト」とは東国、すなわち東蝦夷、後の千島アイヌなどであり、「唐子」とは韃靼海峡を経て満州文化の影響を受けたアイヌ、すなわち後の樺太アイヌなどであり、「渡党」とは奥羽より敗走したもの、すなわち日本文化を浴していた北海道入口のアイヌであると比定している。
 さらに、『諏訪大明神絵詞』(諏訪大進房円忠,1356/1925)には「日ノモト」と「唐子」の地は外国に連なり、彼らは狩猟、漁撈を行い、五穀(常食とする5種の穀物で米、麦、粟、豆、黍または稗など諸説あり)の農耕を行わず、言葉も通じにくいこと、これとは対照的に「渡党」は和国の人に類似し言語も通じ、この中には霧をおこす術を伝え、身を隠す方法に精通している者がいること、戦場では男性は甲胄弓矢を持ち前に進み、女性は後にしたがい木を削って幣のようにして天に向かって呪文をとなえること、また男女とも乗馬を用いず身軽であり、矢は魚骨を鏃とし毒をぬっていること、など近世のアイヌ文化に共通する特徴が述べられている。中世には、日本の視野はすでに蝦夷が千島−現在の北海道とその隣接地域−とそこに住む人々にまで及び、さらにその先が外国に連なることが認識されていたのである。
 もっとも、アイヌに関する正確で詳細な記述が多く見られるようになるのは、近世である江戸時代に入ってからである。たとえば、享保5年(1720年)には新井白石が北海道を対象とした最初の地誌とされる『蝦夷志』(新井,1720/1979)を著している。また、同年頃、著者不詳ではあるが『松前國中記』(著者不明,1720頃)が残されている。さらに、天明3年(1783年)には工藤平助が『赤蝦夷風説考』(工藤, 1783/1972)を著し、千島列島の北方島づたいに赤蝦夷と名づけたカムサスカ(現在のカムチャツカ)という国があり、そこの住民が乾鮭、鮭油などを持って来て、塩、米、反物、織物などと交易をしているということ、さらに、「ムスコベヤ」(現在のモスクワ)を都とする「ヲロシヤ」(現在のロシア)という大国が寛文年中(1661−1672年)の頃から段々と勢力を広げ、正徳(1711−1715年)の頃には、この「カムサスカ」まで支配したということが述べられ、日本の国防の必要性が説かれることになる。
 これが契機となり、天明5年(1785年)と6年(1786年)には幕府の蝦夷地調査隊が派遣され、北は樺太、東は南千島国後島に至った。この時、最上徳内南千島択捉島のみならず、北千島の得撫島)にも渡っている。この調査隊に参加した佐藤玄六郎は天明6年(1786年)に蝦夷地調査の結果を『蝦夷捨遺』(佐藤, 1786/1972)としてまとめ、また最上徳内は寛政2年(1790年)に『蝦夷草紙』(最上, 1790/1972)として著し、地理、産物、アイヌの社会、儀礼、歌踊などについて記述している。当時の樺太や千島列島は南下するロシアに対する日本の北辺であった。
 さらに寛政10年(1798年)には、幕府の再度の東西蝦夷地調査隊が派遣され、この際、別働隊の近藤重蔵間宮林蔵らは南千島択捉島へ渡り、また村上島之丞(別名 秦檍丸)はアイヌの生活を描写した絵と文による『蝦夷島奇観』(村上,1799/1953;1799/1973)を寛政11年(1799年)に著している。また、寛政12年(1800年)には伊能忠敬が幕府に許可を得て蝦夷地測量を行い、文化5年(1808年)と6年(1809年)には間宮林蔵北樺太の検分を行い、間宮海峡を踏査し、樺太が島であることを確認している(北海道編,1989;山田,2002)。
 この時期の樺太に関しては、松田伝十郎が寛政11年(1799年)より文政5年(1822年)に至る蝦夷地関係記録である『北夷談』(松田,1822/1972)の中で記している。たとえば、ヲロツコ人(ウイルタ)はトナカイという獣を飼い荷物を付け騎乗し、スメレングル(ニヴフ)は犬を飼い夏は岸辺から海面の舟を引かせ、冬は雪上で橇を引かせることが述べられている。また、山靼人(沿海地方ツングース語族)が毎年この島に渡来し、樺太および北海道宗谷のアイヌと交易していること、樺太アイヌおよび渡来して山猟をする山靼人が獺(カワウソ)、狐(キツネ)、貂(ラッコ)の毛皮を持って満州仮府のある黒龍江畔のデレエ(デレン)にまで舟で行き、粟、米、酒、煙草と交易していること、さらにはかつて松前藩が北海道で交易を始めた頃、樺太アイヌと山靼人が錦の切れ、青玉、きせる杯などを持って宗谷に渡来し、獺(カワウソ)、狐(キツネ)、狸(タヌキ)の毛皮と交易していたことなどが記されている(松田,1882/1972,間宮,1855/1972)。これらの記述から、清王朝を背景としたアジア大陸沿海地方、および樺太における毛皮交易の実態のみならず、山靼人と樺太アイヌが、北海道アイヌとの交易を行うことにより中間商人としての役割を持っていたことが明らかにされる。
 さらに、翌文化6年(1809年)、間宮林蔵樺太から海路大陸へ渡り、舟とともに峠を越えキジ湖を経てデレンに至り、満州官人による交易の様子を見、帰路は黒龍江本流を下っている。この時の記録が文化8年(1811年)、間宮林蔵が清書して幕府に献上したとされる『東韃地方紀行』(間宮,1811a/1969)である(北海道編,1989;高倉,1969)。この報告書において間宮林蔵黒龍江畔にある満州仮府での交易の様子を記載し、また樺太北部から黒龍江下流に住むさまざまな民族の名称、すなわち、ヲロツコ(ツングース諸語ウイルタ)、スメレンクル(ニヴヒ)、シルンアイノ(樺太奥地アイヌ)、キムンアイノ(山アイヌ)、サンタン(黒龍江下流に住むツングース諸語オルチャか)、コルテツケ(ウスリー河下流に住むツングース諸語ゴルドか)、キャツカラ(黒龍江下流に住むツングース諸語ネギダールか)、イダ−、キーレン(ゴルドの一派サマギール)−を記録している(括弧内の現在の民族名との比定は、『東韃地方紀行』の解題・補註者である高倉(1969)による)。さらに、『東韃地方紀行』と共に著された『北夷分界余話』(間宮,1811b/1973;1811c/1973)は、安政2年(1855年)になって『北蝦夷図説』(間宮,1855/1972)として木版で出版され、樺太アイヌ、ヲロツコ(ウイルタ)、スメレンクル(ニブフ)に関する食、住居、技術、生業、交易、冠婚葬祭など、詳細な描写と民族誌が記されたものとなっている。
 ところで、アイヌに関する記録において特徴的なことは、記述に加え多くのアイヌ風俗画が見られることである。それらは絵巻であったり、旧記に挿入された図であったり、あるいは版画であったり、ちょうど民族誌における写真のように、文章では表現することのできない貴重な情報をもたらしているのである。最初の写実的アイヌ風俗画は、前述した『蝦夷志』に附けられた新井白石の『蝦夷志附図』(1720/1945; 1720/1953;1720/1959)である。ここには、男女のアイヌが特徴的な衣服、装飾をつけ、簡潔に描かれており、さらに、寸法、材料、用法などの記載とともに、弓矢、器物、棍棒などアイヌの物資文化に関する図(新井,1720/1953;高倉,1953)が載せられている。また、松前の画家小玉貞良が宝暦6年(1756年)頃に描いたのではないかとされる『蝦夷国風絵』(小玉,1756/1945;1756/1953;1756/1973)には熊祭の図、コンブ採りの図、シュト打ちの図、松前藩主謁見の図などアイヌの生活と祭礼の様子が描かれている。
 さらに、寛政2年(1790年)になると蛎崎波響による『夷酋列像』に、山丹渡来の蝦夷錦をまとい、飾刀を下げ、あるいは槍を小脇にたずさえた威風堂々とした十二人の国後、目梨地方の人物像が描かれることになる(蛎崎,1790/1953;1790/1968;1790/1973)。この18世紀は、前述したようにロシアの南下に対する幕府の蝦夷地調査隊の派遣、さらに第1次の蝦夷地の幕府直轄時代が始まる時期にあたり、多くの著書とアイヌの風俗画が作成された。谷元旦の『蝦夷紀行図譜』(谷,1799/1953;1799/1973)には婦人アツシ織の図、観猟の図、童子遊戯の図、酒宴の図、三日打の図、船による渡海の図、取火図、祈神の図、煙草輪吹の図などアイヌの生活が写実的に描かれている。また、前述の『蝦夷島奇観』(村上,1799/1953;1799/1973)は幕府の第2次蝦夷地調査により成ったものであるが、これには大地の造島神、女神窟居、男女のアイヌ、謁見、列座礼拝、挨拶、病人、葬礼、サイモン(探湯、くかたち)、マチコル(婚礼)、家を焼く、ウカリ(棒打ち)、酒宴の踊り、酒宴、メッカ打ち、ニヨエン(帰還の行事)、犬に舟をひかせる、昆布とり、犬の去勢、鮭漁、ニカップの皮剥ぎ、エブリコ取り、鷹とり、などアイヌの神話、冠婚葬祭、日々の活動に加えて、弓矢、矢筒、女性のイレズミ、シトキ(首飾り)、家屋とその内部の詳細な描写と説明がなされており、明治以後には見ることのできなくなった多くの近世アイヌ文化に関する記録がなされている。これは、村上島之丞が、アイヌの「旧来の形容うせざらん事を思ひ、尚見ぬ人の為にも」(高倉,1953)とアイヌ風俗の記録のためにこの絵巻を制作したという明確な意図があったからである。さらに、その後、村上島之丞の図説は養子村上貞助と間宮林蔵によって整理され、東京大学人類学教室蔵『蝦夷生計図説』と函館図書館蔵『蝦夷島図説』(原典は内閣文庫所蔵の『蝦夷画帖』)となって残されることになる(高倉,1953;1968;1973)。『蝦夷生計図説』、もしくは『蝦夷画帖』(村上,1804-1823/1945;1804-1823/1953;1804-1823/1968)には、雑穀の種播きから収穫、脱穀に至る栽培工程、樹皮衣の材料である樹皮をさらす様子、樹皮繊維に撚をかける様子、毛皮、鳥羽、草など各種の材料で作られた衣服、家屋の建築の作業工程、カヤ葺き家、シラカバ樹皮葺き家、ササ葺き家、など各種の材料で屋根を葺かれた家屋、食事の様子、イナウ(木幣)、イナウ制作の様子、筵の帆を上げ海上を走行する舟、などアイヌのさまざまな生計活動と衣、食、住にかかわる物資的側面が描かれている。
 やがて、文化8年(1811年)のゴロヴニン事件を経て嘉永6年(1853年)にはペリーが浦賀に来航、翌安政元年(1854年)に幕府は下田、箱舘を開港する。同年、プチャーチンが長崎、箱舘に来航、日露国境を千島の択捉島の北の択捉水道とし、樺太は雑居地とする覚書が交換され、安政3年(1856年)に批准書が交換される(北海道 編, 1989)。鎖国から開国へと激動する国内、国際情勢の変化に伴い、蝦夷地は幕府の第2次直轄時代(1855年−1867年)を迎える(煎本,1987)。この時期、多くの報告書に加えアイヌ風俗画も制作されるが、平沢屏山によるアイヌ風俗画として代表的なものは安政4年,5年(1857年、1858年)に幕府のもと箱舘奉行によりアイヌに対して実施された種痘場面を描いた『蝦夷人種痘の図』(平沢, 1857/1945;1857/1968)、および『蝦夷風俗十二か月屏風』(平沢,1800年代後半/1945;1800年代後半/1973)である。十二か月屏風は正月年礼の図、二月山猟之図、三月布海苔採之図、四月アツシ紡之図、五月鰯粕乾之図、六月昆布採之図、七月鱒漁之図、八月鮭漁之図、九月マレックにて鮭突之図、十月山猟に出立之図, 十二月熊送之図の各図がそれぞれ縦130センチメートル、横52センチメートルの大きさに六曲一双の屏風絵として制作されたものであり、その芸術性の高さもさることながら、アイヌの生態の年周期が的確に示されている。また、1800年代末、西川北洋により制作された『アイヌ風俗絵巻』(西川,1800年代末/1973)には、悔やみ、ムックリ演奏、狩猟、漁撈、採集などの生計活動、子熊の飼育、熊祭り、遊戯、シャコロベの語り、裁判などの絵が写実的、かつ緻密に描かれている。
 やがて、弘化2年(1845年)以来、蝦夷地を踏査すること4回、安政3年(1856年)に幕府雇となって蝦夷地の山川地理取調に当たった松浦武四郎は、版画によるアイヌ風俗画を挿入した木版著書を通して蝦夷地を広く人々に紹介し、従来のアイヌ風俗画を集積、普及したのである(松浦,1859/1945;1859/1968;高倉,1973)。松浦は江戸時代後期の北海道、樺太を広く探検し、地理、アイヌ語地名、アイヌ人口に関する貴重な調査記録を残したのみならず、普遍的で客観的な視点を持ち、アイヌの人々からの信頼をも得ていた人物であった(山田,2002;YAMADA,2003)。後に、この松浦武四郎の日誌および地理取調図(松浦,1856/1978;1858/1985;1859/1983;1863/1962)を中心に近世における沙流川流域アイヌに関する文化人類学的、歴史生態学的分析が行われた(煎本 1987;1988;1992b)。
 以上述べたように、日本における北方研究は探検の時代に始まったといえる。とりわけ近世である江戸時代に記録された資料に基づいて当時の北方地域の生態、社会、文化がある程度まで解明し得るのは次のような理由によるものであろう。第1に北海道とその隣接地域を含む北方地域に対する関心が高く、多くの資料が残されたことである。この背景には、徳川幕府のもとにあった松前藩が、1604年に徳川家康より蝦夷地(エゾチ)(今日の北海道、千島列島、樺太の総称)の経営権を得、これを実行したこと、そして南下するロシアに対し幕府は日本の北方地域を「北門の守り」とし、国家の最前線として位置づけたこと、さらに、隆盛を極めた上方や江戸庶民文化のもと、人々の好奇心が周辺の事物にまで広げられたこと、などが考えられよう。第2に日本の伝統文化でもある自然観察に基づいた客観的で包括的な記載方法が確立されていたことがあげられよう。その背景には、8世紀に始まる風土記−地方別に郡郷の名由来、地形、産物、伝説、その他の情勢を記した地誌−の編纂の経験、そして律令制以後、宮廷や幕府などに直属し絵画の制作に当たる職人である絵師の伝統など、日本の歴史の中で形成されてきた独自の自然観に基づく科学的方法が確立していたことがあったからに他ならない。

2.学究の時代

 1868年に明治新政府が樹立され、大正時代(1912−1926年)を経て昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結に至る78年間は、日本における近代国家創出の時代であった。学術分野では、日本の伝統科学の上に西洋の科学が取り入れられ、さまざまな新しい研究分野と研究組織が作られることになった。人類学の分野では、日本人と日本文化の起源をめぐる問題がその中心課題となった。明治17年(1884年)に、後の日本人類学会、日本民族学会などの前身となる会「じんるいがくのとも」(後に人類学研究会、人類学会、明治19年(1886年)からは東京人類学会、昭和16年(1941年)からは現在の日本人類学会と改称)が坪井正五郎らを発起人として発足し、明治19年(1886年)には機関誌『人類学報告』(後に『東京人類学報告』、『東京人類学雑誌』、さらに明治44年(1911年)からは『人類学雑誌』と改称)が刊行され(寺田,1975)、ここに日本の人類学の基礎が置かれたのである。
 もっとも、当時は具体的な資料の蓄積もほとんどなく、日本人の起源についてもさまざまな仮説が立てられたにとどまった。白井光太郎(M・S生,1887)や小金井良精(小金井, 1889a;1889b;1904)は日本石器時代人はアイヌであると考え、また、坪井正五郎(1886;1887a;1887b;1971-1972)は日本石器時代人はアイヌの伝説に語られアイヌより先に住んでいたとされるコロボックルであると考えた。さらに、明治後半から昭和10年代まで探検家として遼東、満州、蒙古、北千島、樺太、シベリアなど広く北アジア民族学的調査を行った鳥居龍蔵(鳥居,1975-1977;寺田,1975)は日本列島への人の渡来は、第1にアイヌがあり、第2に北方から蒙古系大和族が九州にやって来て混在し、第3にインドネシア族が海岸部に来て、さらに第4のツングースと近縁の蒙古族が北方より渡来し日本の皇帝となり、他の諸族を併合、同化し、大和族として王朝を形成したという固有日本人説を立てた。
 また明治29年(1896年)には弥生式土器の存在が明らかにされ、大正時代には縄文時代の編年など先史学的資料の整理も試みられた。そして古人骨の計測と比較に基づき、京都大学の清野謙次、金関丈夫、さらには考古学の浜田青陵らは石器時代人はアイヌでもなく現日本人でもなく原日本人であり、アイヌと日本人との差異の主原因の1つは混血にある(金関,1976;清野,1925;1982;清野・金関,1928; 藤岡,1979)と考えた。また、同時期、後に東京大学人類学科を創設する東北大学の長谷部言人も石器時代人は現代日本人の祖先であり、大陸渡来は要素である(長谷部, 1949;1975;寺田,1975)との考えに至ることになる。これら石器時代人が原日本人であるという説は、現代日本人が後に日本列島にやって来たことを前提としていたそれ以前の諸説と比較すると、人類形質が数百万年という人類進化史の中では比較的短期間である1万年くらいの間にも変化し得るという考え方に基づくものであった。これらの説はさらに、日本の石器時代人である縄文人が生活の変化により小進化をとげ現代日本人的形質を得ることも可能であるとする考え(鈴木,1963;1971;1992)、あるいは弥生人の遺伝的影響は大きなものではあったが、縄文人が原日本人であり、弥生人の渡来した西日本を頂点として日本列島の南北への弥生人的形質の遺伝的勾配が見られる(埴原,1996;池田,1982;尾本,1995;OMOTO,1996;山口,1990)という日本人の起源と形成についての現在の研究成果を導くための基礎となったものである。すなわち、日本人の起源の問題に関して常に重要な地位を占めてきたアイヌは日本人と同様、縄文人を祖先とするという結論を得ることになったのである。
 また、この時期の人類学は、現在でいうところの形質(自然)人類学のみならず、民俗学民族学、先史学を含んでおり、日本とその周辺地域の人々の形質のみならず、文化についての資料が網羅的に収集されることになった。大正2年(1913年)柳田国男(柳田,1989-1991)らが雑誌『郷土研究』(1917年までの4巻)を発刊し、大正14年(1925年)には『民族』(1929年までの4巻)を発刊、大正15年(1926年)に柳田国男のもとでアイヌの会が催され、形質人類学者の小金井良精、宣教師で言語学者民族学者のバチュラー(BATCHELOR, John)たちが参加するなど(寺田,1975)、共通テーマのもとに研究者たちの交流が行われていた。もっとも、昭和4年(1929年)に民俗学会が結成され機関誌『民俗学』(1933年で終刊)が発刊され、その同人の中から昭和9年(1934年)に新学会の日本民族学会(平成16年、日本文化人類学会と改称)が発足し、機関誌『民族学研究』(平成16年、『文化人類学』と改称)が昭和10年(1935年)から刊行された。そして同年、柳田国男を中心に民間伝承の会(戦後、『日本民俗学会』と改称)が結成され、機関誌『民間伝承』(戦後、『日本民俗学』と改称)が創刊される。そして、一方は異民族研究の民族学に、他方は自民族研究の民俗学に分かれる(伊藤,2002;寺田,1975)ことになったのである。また、この頃には人類学と考古学も分離し、形質(自然)人類学、民俗学民族学、考古学という専門分野が確立された。もっとも、昭和13年(1938年)東京大学に人類学科を創設する長谷部言人のように人類学を広くとらえる考え方もあり、これは戦後の東京大学理学部人類学教室の研究に継承され、後述するように日本の生態人類学の出発点となった考え方でもある。
 さらに、民俗学民族学はその研究対象は異なるものの、人々の生活、文化、伝承を包括的に記載するという日本の伝統的方法論は共通したものであった。したがって、この方法論を用いて多くの民俗学民族学的資料が収集されることになったのである。明治2年(1869年)に北海道に開拓使が設置され、明治9年(1876年)には札幌農学校(明治40年(1907年)に東北帝国大学農科大学となり、大正7年(1918年)に北海道帝国大学が設置され、同農科大学となり、昭和22年(1947年)に現在の北海道大学となる)がマサチューセッツ農科大学長W.S.クラークを教頭に設立される(北海道大学百二十五年史編集室編,2003)。さらに、明治8年(1875年)の樺太・千島交換条約日露戦争後の明治38年(1905年)のポーツマス条約により、日本は全千島と樺太南半を領有し、北方地域の開拓が進められた。これにともない、北海道、樺太、千島における人類学、考古学、民族学的資料(馬場,1979;鳥居,1975-1977;須田,1939;河野常吉,1974-1975;河野広道,1971-1972)、とりわけアイヌ文化に関しては金田一京助金田一, 1992)、知里真志保(1973-1976)らをはじめとする多数の研究者による資料が蓄積された(IRIMOTO,1992b;YAMADA,2003)。
 また、明治43年(1910年)に韓国併合により京城(現在のソウル)に朝鮮総督府が置かれ、大正15年(1926年)には京城帝国大学が開設された。さらに、昭和6年(1931年)の満州事変を経て昭和7年(1932年)には満州国の建国宣言が出される(北海道 編,1989)。そして、この地域における、満州族蒙古族など北方諸民族の祭儀、シャマニズム、家族制度などの民族学的資料が先の鳥居龍蔵(鳥居,1909a;1909b)をはじめ、赤松智城(赤松,1936)、小林胖生(小林,1932)、小堀巖(小堀,1949)、大山彦一(大山,1941)、瀧澤俊(瀧澤,1937)などの研究者により、『東京人類学雑誌』、『人類学会雑誌』、『民族学研究』、『満蒙』などの機関誌に発表される。さらに、この時代の終期には今西錦司(今西,1974-1975;今西・伴,1948a;1948b)や梅棹忠夫(梅棹, 1976;1989-1994)らによる大興安嶺、内蒙古遊牧民生態学的研究、泉靖一(泉,1937)による大興安嶺のオロチョンの社会組織と生活領域の研究、石田英一郎(石田,1941)による樺太のオロッコ(ウイルタ)の社会組織の研究など社会−生態学的視点からの北方地域における人類学的研究が登場することになる。また、太平洋戦争2年目の昭和18年(1943年)には民族研究所、昭和19年(1944年)には張家口に西北研究所など民族学関係の研究所ができた(寺田,1975)が、翌昭和20年(1945年)には終戦をむかえることになる。
 以上述べたように、日本の近代国家創出の時代における日本人の起源の問題は、民族的―国民的帰属性の形成と結びついたものであったと考えることができよう。自民族研究の民俗学は一国民俗学の運動とともに日本人の帰属性を歴史の彼方へと内側に向かって遡り、これとは対照的に異民族研究の民族学は日本人の帰属性を求めて外側に向かって探検したのである。

3.世界の時代

 1945年の太平洋戦争の終結から戦後世界の二極対立構造が崩壊し20世紀が終わる2000年までの55年間の時代は、日本にとっては新しい民主主義体制のもとでの社会と経済の復興の時代であった。人類学分野ではアメリカから新しく文化人類学が取り入れられ、従来の民族的−国民的帰属性と結びついた日本人の起源という問題ではなく「人間とは何か」という人類学の普遍的問題が中心課題となった。この時代はいわば学術的関心が世界に開かれた「世界の時代」であった。
 東京大学人類学教室では、長谷部言人の「自然人類学は古今東西にわたる人類の自然史である」(長谷部,1927)との広い考え方を受け継ぎ、ヒトの「はたらき」を中心にした総合科学としての人類学(杉浦,1951)との考えのもと、人類の形質と文化との関係を直立二足歩行を中心とする人類進化という広い観点から解明しようとする研究が行われることになった。また、戦後新たに文化人類学研究室が人類学教室から分離するが、石田英一郎(石田,1970-72;石田・他,1958)が一貫して強調したように、人類学は「一個の総合科学」であるという立場に変わりはなかった。
 人類学教室における北方研究に関しては、渡辺仁により19世紀後半のアイヌの生活が生態学的、構造−機能的視点から復元、記載(WATANABE,1964/1972)され、さらに日本の縄文社会が階層化社会であったことが論じられる(渡辺,1990)など、北方狩猟採集民の進化生態学的、機能的研究が行われた。また、国際生物学計画の一環として、アイヌの寒冷適応能、遺伝学の調査(生物圏動態ヒトの適応能分科会編,1970)が行われた。文化人類学研究室における北方研究に関しては、大林太良により文化要素、とりわけ南北の神話の比較から多民族起源からなる日本文化の特徴(大林,1961;1999)が明らかにされた。また、アメリカのブリン・モアー大学で文化人類学を学んでいた須江(原)ひろ子は博士論文作成の一環として北方アサパスカンのヘアーの調査(須江,1965)を行った。アラスカ・エスキモー研究に関しては明治大学岡正雄が1960年から1964年にかけ3度の現地調査を行った(渡辺・他編,1961;蒲生,1964)。祖父江孝男はエスキモーの心理人類学的研究(祖父江,1972)を行い、宮岡伯人はユピック・エスキモーの言語学のみならず、文化と言語の関係を論じる言語人類学を展開し、またエスキモー語をアラスカ大学との協力のもと自らエスキモーに教えるなど消滅に瀕する言語プロジェクトを推進した(MIYAOKA,1979;1994;宮岡,1987)。
 東京大学人類学教室において展開したヒトの活動に焦点をあてた生態人類学的研究では、活動とは「はたらき」であり、フィールドワークを通して時間−空間的に記録、分析することが可能な科学的研究の対象として捉えられた(IRIMOTO,1973;1977a;1977b;煎本,1977c;1977d;大塚,1970;WATANABE,1977a;渡辺編,1977b)。私はこの方法論に基づき、カナダ亜北極のアサパスカン・インディアン(デネ)の生態人類学的研究を行った(IRIMOTO,1979;1981)。さらに、トナカイ狩猟民の生態と世界観との関係についての考察がなされ、フィールドワークの過程の記録とともに、公刊された(煎本,1983/2002)。これらの研究は後に提出される自然誌−自然と文化の人類学−の理論と方法論(煎本,1996)の基盤を成すものであった。
 ところで、北海道大学北方文化研究施設はその前身を、昭和12年(1937年)に北海道帝国大学に学内措置の研究機関として発足した北方文化研究室に置くが、北方地域の人類学、民俗・民族学、考古学、とりわけアイヌに関する研究において独自の領域を開拓し、『北方文化研究報告』(1939−1965年)、『ユーラシア文化研究』(1965年)、『北方文化研究』21巻(2−22巻)(1967−1995年)にその研究成果を刊行してきた。最近のアイヌ研究に関しては本論文ですでに述べた沙流川流域アイヌの歴史的、文化人類学的分析にはじまり、アイヌの文献データベースの作成、生態、シャマニズム、民族性、帰属性、文化復興、文化創造などに関する一連の研究が公刊された(IRIMOTO, 2004b;YAMADA,2004)。同時に、広く北方諸文化を比較し、その特質を解明するために北方学会が設立され、機関誌『北方学会報』1−12号(1992−2006年)が刊行されるとともに、国際共同研究が推進され、3度に渡る国際シンポジウムが開催された(IRIMOTO and YAMADA,1994;2004; YAMADA and IRIMOTO,1997)。
 これら一連の最近の北方研究の特徴は第1にこれが国際共同研究であったということである。従来日本を中心に見ていた北方文化を、今や国際的視野から位置づけることができるようになったのである。特徴の第2は理論的枠組みとして自然誌―自然と文化の人類学―の考え方を提示したことである。ここで用いられる自然誌とは自然と文化の人類学と呼び得る新しい人類学の理論と方法論である。「自然」とは字義どおりには英語の“nature”に相当するが、日本語では「あるがままのさま」を意味し、「誌」は「記録」の意味である。ここでは、人間を自然であると同時に文化であると考え、自然人類学と文化人類学の交叉する領域である人間の生活を研究対象とする。さらに生活とはさまざまな活動の体系であると捉える。したがって、自然誌とは文化と自然とが重なり合う人間の諸活動の体系的記載であるということになる。また、ここで用いられるフィールドワークの経験的観察方法とは観察者が対象と同一化し、世界を対象の内側から観察するという方法論である(煎本,1996)。特徴の第3は北方文化の共通性に着目し、人類学の最新の課題を設定、討論し、そこから人類学の新しい考え方を導き出し、発信したことである。特徴の第4は従来調査される側にあったアイヌアメリカの先住民、サーミ、モンゴルなどの人々が調査する側の研究者と対等の立場で参加し、共通の課題のもとに論文を発表したことである。そして、最後に特徴の第5は、国際シンポジウムにおける知識と人物の交流を契機として、さまざまな独自性のある研究が推進、展開されたことである(IRIMOTO, 2004c;煎本,2006;煎本編,2002;煎本・高橋・山岸編,2006;煎本・山田編,2006;山田,1994;YAMADA, 1999;2001)。
 すなわち、ユーラシア、日本、北アメリカを含む北方地域において、戦後の二極対立構造の崩壊後の社会、経済、生態の変化、民族性と帰属性の復興、文化の動態などは、今や国際的に共通の人類学的論点となった。このように、北方研究は、世界の時代における研究を展開することになったのである。

おわりに

 日本における北方研究は近世以来の長い歴史の上に独自の変遷と展開をとげて来た。研究対象はアイヌ文化から広くユーラシア、日本、北アメリカを含む北方周極地域諸文化へと展開し、研究方法も民族学民俗学から自然と文化の人類学−自然誌−へと変遷し、さらに研究目的も日本人と日本文化の起源を明らかにすることから、「人間とは何か」という人類学の普遍的課題の解明へと変化してきたのである。
 自然誌は生態人類学的方法論を基礎としながら、さらに自然と文化を同一的に捉え、人間の全体的理解を目的とするものである。私は自然誌は日本と西洋の科学の統合であると考えている。全体の枠組みは日本の伝統的自然観に基づいた全体的記載により構成されるが、そこに「いかにして」、「なぜ」という西洋の人類学的分析的思考が統合されているのである。自然と文化とを対立的に捉えないで、それらが本来同一のものであるとする日本の伝統的思考、明治以後西洋の科学的人類学をとり入れながらも一貫して文化と自然の交叉するヒトの「はたらき」や「活動」を重視し続けた東京大学人類学教室の伝統、また、分析を避けあくまでも包括的記載そのものを学問の目的と方法とした柳田国男の日本の民俗学の伝統、さらには、戦後の文化人類学の導入に際しても人類学が一個の総合科学であることを強調し、人間の全体性の理解を重視した日本の文化人類学の伝統の中に受け継がれて来たと考えられるのである。私はこれらの伝統を継承しながら、さらに人間研究のための精神を少し加えたにすぎないのである。私は自然誌という新しい人類学の考え方を通して、日本的思考による世界の新しい見方が広く提示できるのであれば、それは世界の人類学にとって有益な貢献になるのだと考えている。
 自然誌を通して、人間と動物とは本質的には変わらないのだという初原的同一性の思考、人間と自然との間の関係を超自然的互酬性として認識する思考、さらには、人間を含む自然全体を循環と共生としてとらえる思考などが北方文化の特質として抽出された。さらに、これらの思考は北方における狩猟を中心とした生態、社会、世界観と深く結びついていることが明らかにされた。しかし、私はこれらの特質が北方文化にとどまらず、人類に見られる普遍的思考の一つではないかと考えている。このような人類の思考がなぜ生まれ、現在どのような意味を持っているのかを人類進化史的枠組みから明らかにすることは、人間の心の解明を行うことであり、人間とは何かという人類学の命題に答えることでもある。北方文化から人類の普遍性の探求へと研究は展開しているのである。
 さらに、北方文化における民族性と帰属性の研究から、共生の思考というものが、民族間の紛争の解決に役割をはたしていることが明らかになって来た。アイヌ文化の創造や復興における共生の思考と行為主体の役割の重要性が指摘されたのである。21世紀の前半は民族紛争の時代であるといわれる。社会主義国家の崩壊などに見られるように、国家と民族、民族と民族の関係が変化し、それまで抑圧されていた民族が自己主張を始めたからである。暴力を伴う大規模な紛争により多くの人々が命を奪われたり難民となっている。そこで、本来、おそらく心の中に組み込まれていたはずの、さまざまな紛争解決のメカニズムを人類学的に解明する必要があると考えられるのである。人類進化における心の文化・生態学的解明である。
 北方研究がこれらの問題の解決に貢献することができれば、人類学は「人間とは何か」という問いに答えるのみではなく、「人間はいかにあるべきか」という命題にも答えることになるはずである。私は人類学の目的は人間とは何かという本源的真理の探究にあり、人類の幸福に貢献することであると考えている。そうであれば、将来への展望として、21世紀は人類学にとって「人間性の時代」と呼び得るものになるはずである。
▲ページトップ



Index研究課題1.北方文化研究の集大成>日本における北方研究の再検討―自然誌‐自然と文化の人類学‐の視点から―


copyright © 2012 Takashi Irimoto